1998年4月20日発行
仇討を果たした大内内蔵助の子大三郎は、幼い頃に養子に出されたせいか何か大事なものを忘れて成長したように子供子供して、妾腹のために呉服屋から買い付けた勘定書のことで妻と口喧嘩を始めた。大三郎は、母のりくに対して何故大石内蔵助の子に生まれたのか、何故大石内蔵助の許へ嫁いだのかと笑い出し、やがてその声が嗚咽に変っていく。
りくは、大石内蔵助との間に、松之丞(後に主税と名乗る)、くう、吉之進(後に外衛と名乗る)、るりをもうけた。が長男は15歳で夫と共に亡くす。松山城水谷家改易をつつがなくやり終えたことで赤穂藩には大石内蔵助ありと諸藩中の評判となった。りくは吉之進夫婦のために一人で隠居暮らしをしようとしたが、吉之進は親の心子知らず、自分が母を出したという噂が殿様に知れたら自分がどのようなお叱りを頂くか、自分がどうなっても構わないと思うのかとりくを怒鳴りつける始末。
ある時は、りくは大石内蔵助から比佐を奉公人として家に置くといわれる。大石内蔵助の弟信澄の妻からは、妾と聞かされて、やり場のない怒りは消しようがなかった。りよが生まれ、大石内蔵助は比佐とりよを大叔母の家に預けた。
あの大事件から30年余り経った今でも、りくは何故、殿様があんなことをしたのか、よく分からないでいる。きっかけは浅野内匠頭に勅使饗応の役目が命ぜられたことだった。指南役の吉良上野介の指示を受けることから、こうせよと言ってくるだろうと言っていた。それが突然「殿様、殿中にて刃傷」との知らせを運んできた。急使が、浅野内匠頭、切腹を伝えた。かなり後になっていろいろな話をりくは耳にするが、その内容はまちまちだった。
山科に移った大石内蔵助は隠居した。松之丞は内輪で元服し主税良金と名乗った。りくはこの時期に嫡男を元服した意味をどう解釈したらよいのか思い迷っていた。