花影の花 大石内蔵助の妻《下》 平岩弓枝

1998年4月20日発行

 

ひくは、再び子を宿した。大石内蔵助はりくに安心して子を産むために実家帰りを勧める。りくは帰らぬというと、内蔵助は決して犬死はせぬが、万一、大罪人となった時、幼い子達を頼むといえるのはりくだけなのだと諭し、主税を除いて、吉之進、くう、るりを伴って実家に帰るようにいう。りくは心が空白になったまま、内蔵助の言うことに随うことに決める。

実家に戻った後、浅野家再興の道が途絶えたことを知り、夫の歩き出す道がみえていたりくは良い子を産むことしかできなかった。大三郎と名付けられた。主税が弟大三郎の顔を見に帰ってきた。りくは間もなく死出の旅に発つかもしれないと思うと、胸がかきむしられるようだった。翌日山科に帰る主税を見送るりくは、我が子までがどうしてという未練は消せなかった。主税は「やはり、来てよかったと思いました」「主税は母上のお心を抱いて参ります」と言ってくるりと背を向けてまっしぐらに掛けて行った。やがて内蔵助から離縁状が届く。りくの父源五兵衛はりくに悲しむでない、内蔵助どのの思いやりじゃと言い聞かせた。吉之進は大休和尚の弟子となって剃髪し、大三郎は林文左衛門の養子となった。47人で討入を果たし、内蔵助も主税も無事であることを聞いたりくは心がゆるんだ。が、幕府は赤穂浪人達に切腹を命じた。それを聞いたりくは、仏間の正面に坐り、線香の煙の行方を追い、ぼんやりしていた。泣けなかった。兄はりくに、吉之進にも大三郎にも晴れて大石内蔵助の子として胸を張って世に出る日が必ず来る、その日のためにも二人の子を立派な男に育てねばならぬと励ました。それは蛍火のような淡い希望であったが、打ちのめされた時分をはげます灯には違いなかった。46日の中、20人が妻を、或いは妻子を残している。その遺族の一人一人がこの先、どんな生き方をして行くのかと思うと、敵討というもののむごたらしさに胸がふさがれる。13歳の大三郎に広島の浅野家本家への仕官が決まった直後、りくの父毎好は朽木が倒れるように逝った。元服し外衛良行と名乗り、20歳で、浅野帯刀の娘みちを娶ったが、放蕩を尽くして離縁となった。2度目の妻とも大三郎はうまくいかず離縁した。りくは大三郎を立派な武士にするには自分が出家して独り立ちさせるしかないと思いつけ、大震和尚の弟子となった。りくが出家しても大三郎に変化はなかった。りくは経机にもたれたまま苦しみもせずに逝った。母より1歳多く天寿を全うした大三郎の墓は母の墓に並んで広島市を見おろす国泰寺の墓所に建っている。

男の目線ではなく、女の目線・妻の目線・母の目線で描かれた「大内内蔵助の妻」の一生を辿った本。第25回(平成3年度)吉川英治文学賞受賞。

 

巻末の伊藤桂一の解説によると、平岩は代々木八幡宮宮司を父とし、現在も、父のあとを継ぐ宮司の妻としえ、八幡宮に起居している、一般の家庭の主婦とは少々立場が違う。代々木八幡宮は歴史の古い大きな神社であり、氏子や信徒も多い。参拝者を庇護し、そのしあわせを祈念する、神社奉仕の一員として、平岩もまた、ゆたかな惻隠の情をもつよう、幼児から教えられてきている、平岩さんが、その人柄に、おのずと包容力を持つのはそのためである、いわば、これは、弱者、困窮者、懊悩者への救済の思想につながるものであり、平岩さんは大石りくを、身近な思いで、救済はできないまでも、慰撫し、その人生への安心立命を与えてやりたかったのだと思う、りくと同時に、ほかの多くの遺族たちに対しても、とあった。

女性作家ならでは、と思ったが、それ以上に、人の心が分かる作家ならでは、という作品だった。