山桜記 葉室麟

2014年1月30日第1刷発行

 

汐の恋文

 文禄の役で朝鮮に出兵した肥前佐嘉の大名竜造寺政家の家臣瀬川采女に宛てた妻菊子の手紙の入った文箱が船の難破で博多の津に打ち上げられた。漁師がこれを役人に届け出ると、名護屋に在陣中の秀吉がこれを読み、菊子は秀吉から呼出しを受けた。秀吉は菊子の顔を見て、梅北国兼一揆を思い出し、梅北一族との関係を疑った。菊子は梅北国兼の妻爽子と瓜二つだった。菊子は秀吉の面前で処罰を覚悟で自らの本心を伝えた。生前爽子が語っていた“わたしは愛おしく思う方とともに生きていけるなら、悲しみの涙を流しません”との言葉を伝え、采女を朝鮮から戻してほしいと訴えると、秀吉は菊子の身代わりに采女を処罰するために呼び戻す、それが嫌なら、彼の地に留まるほかないと冷たく言い放った。菊子は采女が帰国すると思っていなかったが、采女は戻ってきた。采女は自分も菊子も秀吉に処刑されることを覚悟で戻ってきた。采女が菊子に“されば、ともに参ろう。ふたりならば、あの世への道も寂しゅうなかろう”とさりげない口調で言う辺りが素晴らしい。

 

氷雨降る

一度嫁した公家・菊亭季持が死んだ後、洗礼を受けたジュスタは、キリシタン大名小西行長の勧めで、信仰正しき九州島原の領主・有馬晴信と再婚した。晴信も先妻ルチアを先年病で亡くしていた。二人はキリシタン夫婦として仲睦まじく暮らせると信じていた。関ヶ原の戦い小西行長から言われた通りに大坂に向かった晴信だったが、途中で西軍に加担しないと考えを改めて引き返した。その後、晴信は徳川方に付き、加藤清正小西行長を攻める時は、嫡男直純を城攻めに参加させた。城下にキリシタン会堂を建て、家康の命を受け海外との交易に乗り出した。次第にジェスタは晴信が純粋な信仰心を失っているのではないかと不安になった。本田正純の与力となった岡本大八に騙された晴信は所領を失い、しかも告発を受けて斬首され、ジェスタは夫の処刑の場に立ち合う。ジェスタは”首級を懐き親吻してのち、遺骸とともに之を包み、一室に退き、此に於て己れ遁世の徴として、髪を剪り、これを上帝に奉じたり“と日本西教史に伝えられた。

 

花の陰

 関ヶ原の戦いの3ヵ月前、石田三成の命を受けた大坂方が取り囲んだ細川屋敷の中で細川忠興正室ガラシャ(玉子)は焼死する。ガラシャの最後は東軍から義死と讃えられた。反対に屋敷に火が放たれるのを目にした忠隆の妻千世(前田利家の七女、母は芳春院)は宇喜多屋敷へと逃れたため謗る声があり風当りが強かった。関ヶ原の合戦後、細川忠興は「嫁の身でありながら、姑を捨てて逃げた」と非難する。忠興は秀吉の勧めで忠隆の正室前田利家の娘を迎えたことを後悔して離縁を督促するが、忠隆はそれを拒絶した。忠隆は忠興の勘気を被り遠ざけられ廃嫡された。千世は「わたしは生涯、ガラシャ様の陰で生きていかねばならないかもしれない」と思い、忠隆の許に戻って行った。

 

ぎんぎんじょ

 肥前の大名鍋島直茂の継母慶誾尼(けいぎんに)が93歳で大往生した。直茂の正室彦鶴に遺した慶誾尼の書状には「誾誾如(ぎんぎんじょ)也」と書かれていた。彦鶴は笑みをこぼし、目に涙を浮かべた。慶誾尼との初めての会ったころを思い出していた。慶誾尼は夫の戦死後、竜造寺隆信に仕えていた実家石井家に戻った。ある時、竜造寺方の部将鍋島信昌(後の直茂)が石井館に立ち寄りった。機転の利く彦鶴を信昌は気に入った。慶誾尼は彦鶴を輿入れさせた。慶誾尼自身、竜造寺家の主君の生母でもあったが、信昌の父に押しかけ継室となった人だった。彦鶴の輿入れが行われ、彦鶴は恐る恐る慶誾尼と対面したが、初日から慶誾尼の機嫌を損ねてしまった。彦鶴は秀吉に呼び出されたが工夫が奏功し慶誾尼から褒められ二人して笑いあった。かつて慶誾尼から教えられた「ぎんぎんじょ」の意味を泰長院重職に問うと、「閔子騫(びんしけん)、側(かたわ)らに侍(じ)す。誾誾如也。子路、行行(こうこう)如たり。冉子(ぜんし)、子貢、侃侃(かんかん)如たり」の論語の一説を教えられた。閔子騫は間違っても子路のように無骨であってはならない、名の通り穏やかで慎み深くあれと教え諭したものだった。彦鶴は直茂歿後も嫡子勝茂を盛り立て一族家臣の結束を固めることに力を尽くし89歳まで生きた。

 

くのないように

 加藤清正は家康と秀頼の二条城での会見を実現させ、九州に戻る途中で体調を崩し、急逝した。家督加藤清正の娘八十姫の異母兄忠広が継いだ。八十姫は駿府城主川頼宣(家康の十男)に嫁ぎ清正の遺言として清正愛用の片鎌槍を輿入れ道具の一つとして持参した。二年後に頼宣は紀州に転封、13年後家光により熊本藩主加藤忠広は肥後一国を没収され、出羽庄内の酒井忠勝預けで1万石とされ、忠広の子光正は飛騨配流となり、加藤家は取り潰された。八十姫の名前の由来は、題名にある通り「九(苦)のないように」とのことで、槍が輿入れ道具になったのも加藤家は徳川家に武器を持って戦うことはないとの心構えを示したものだと母清浄院より教わった。清正は加藤家の行く末が安穏でないことを見抜いた上で天下泰平のためには致し方なく、それだけに八十姫には苦のないように生きて貰いたいとの願いが込められていた。

 

牡丹の咲くころ

 柳川藩主立花鑑虎(あきとら)のもとへ、隠居した父忠茂から手紙が届く。若いころ、鍋姫と呼ばれた母・貞照の意向で、牡丹の根の土が落ちないよう、牡丹に気付かれないよう、そっと掘って送って欲しいというものだった。母貞照は62万石の仙台藩伊達忠宗の娘で、11万石の柳川藩主立花忠茂に家光の意向で嫁いだ。忠茂の人となりを訪ねられて家臣の原田宗輔は「物静かで落ち着いたお人柄だと承っております」と答えた。原田の顔に鍋姫は見覚えがあった。翌年、鍋姫は鑑虎をはじめ3男2女を出産した。その頃、老臣から忠茂には側室に生ませた鑑虎より3歳上の鶴寿がいると聞き疑念に沈んだ。鍋姫の父忠宗が死去すると、伊達家問題が起き、忠茂は伊達家の後見人として尽力した。貞照は何も知らずにいたが、全ては原田甲斐から生前に頼まれたことだった。原田甲斐は自らを犠牲にし忠茂に今後の伊達家を託し、牡丹の花を咲かせ、伊達家と立花家が義によって結ばれることを望んで死んでいった。全てを知った後、貞照は忠成に牡丹の根の土が落ちないよう、牡丹に気付かれないよう、そっと掘って送って欲しいとの書状を鑑虎に送ってもらった。

 

天草の譜

 天草で蜂起した島原の乱を鎮圧するため、幕府から派遣された板倉重昌は鍋島、有馬、立花、寺沢の4藩の兵を率いたが苦戦したため、老中松平伊豆守信綱が総大将となった。信綱の指揮の下、細川、黒田藩が攻撃に加わった。黒田忠之は黒田騒動の名誉挽回に努力しようとしていた。浦姫は亡くなっていたが、かつて忠之の側近だった倉八十太夫が陣借りしたいと述べ、浦姫と名乗る女を伴って参上した。この女は万と称した。浦姫が万に憑依し、信綱は兵糧攻めから総攻撃に切り替えた。万は、四郎を捕らえて城の外へ連れ出してほしい、さもなくば43万石が召し上げられるという。万はキリシタンだった如水の異母弟黒田直之の孫だった。果たして四郎の首として討ち取られたのは四郎の首だったのか否か。母は泣き崩れるだけではっきりしたことを言わなかった。