無双の花 葉室麟

2012年1月15日第1刷発行

 

帯封「武将立花宗茂の生涯 直木賞作家誕生!受賞第一作 秀吉はにこやかに宗茂に声をかけ、『その忠義鎮西一、剛勇また鎮西一』と激賞した。秀吉は宗茂をことのほか気に入って〈九州の一物〉と呼んだ。島津を降伏させた後、博多で九州の国割りを行うと、宗茂に柳川十三万二千石余りの領地を与えた。(本文より)」

 

秀吉は東国は本多忠勝、西国は立花宗茂、ともに無双の者であると讃えた。朝鮮出兵の際、宗茂は先鋒を務め、見事な活躍ぶりだった。関ヶ原で西軍に就いた立花家だったが、西軍の総大将毛利輝元は戦わず、小早川秀次が裏切る中、同じ西軍に属した鍋島が柳川を攻めようとしていた。黒田如水加藤清正が攻め寄せれば降伏して家康に所領安堵を願い出ることも考えたが、鍋島が来るならばそうはいかなかった。宗茂は鍋島勢12陣のうち9陣までは切り崩したが、10倍の大軍に囲まれ、籠城戦に切り替えた。鍋島勢が柳川城を包囲すると、清正の陣、如水の陣が続いて到着した。宗茂は降伏を申し出た。西軍に組した立花家は所領を取り上げられ、宗茂は浪人となった。宗茂を豊臣家に引き込み、打倒徳川を目指すようとした長宗我部盛親真田幸村宗茂を誘うが宗茂は応じない。家康に取り上げられるのをひたすら待ち続けた。長い時間がかかったが、ようやく家康に拝謁すると、家康は5千石を提示した。不足かと尋ねられた宗茂は一言も不満を口にしない。家康は宗茂の家臣の姿を見て、宗茂ありてこの家臣ありと感心した。間もなく禄高は1万石となり、陸奥棚倉藩へ移封となる。大阪冬の陣で秀忠側近として傍らに控え、家康の危ない行動を止めたり、地味に活躍し、夏の陣でも活躍した立花宗茂は、家康の信を得て家忠や世嗣の傍らを離れぬなと命じられ、人を裏切らない立花の義を世に知らせしめよと命じた。家康の死後、家康の遺言通り、秀忠より筑後柳川十一万石の再封を賜った。20年ぶりに九州に戻った宗茂は民からも慕われた。