私の履歴書 春日一幸

昭和47年9月28日発行

 

私の履歴書

・生まれは岐阜県長良川のほとり大字日原。高等小学校後、名古屋逓信講習所普通科を卒業し高須郵便局に逓信事務員として勤務。島田清次郎の「地上三部曲」を読んで文学の虫に取り憑かれ、ビリで卒業し、名古屋中央局に配属された。二十歳の時に林芙美子を訪ねて上京した。生田春月の「詩文学」を紹介され、逓信院と決別し、私の詩が「詩文学」に掲載された。詩壇の評論に高名だった伊福部隆輝氏からランクツーに据えて称賛された。実家から勘当され、上京して鎌倉に出て大仏次郎先生を訪ねたが不在だった。佐藤春夫さんのお宅も訪ねた。辻潤さんの宅へも月に1、2度訪ねた。覚王山の山奥で睡眠薬自殺を試みたが、百姓に発見されて病院に運び込まれ一命を取り留めた。通訳の手助けをしたことがきっかけで知り合った蓄音機の卸問屋の佐藤商会と交わりを重ねるようになった。貿易責任者として入店し、業績を伸ばしたが、全体で計算すると他の莫大な損失と帳消しにされ、独立し、メーター氏より資金援助を受けて名古屋市で春日楽器製造株式会社をスタートさせた。戦争突入後、佐藤氏と事業を合併させ、社名を名古屋楽器産業株式会社に変更した。昭和20年正月名古屋南部が焦土化した。戦後、市民大会に参加して開宴に先立ち挨拶をした。政治への想いが芽生え、地方選挙で当選した。露天商人たちを救ったり、保証協会の制度を実現したりした。当時、左派五月会に所属し、2期目は最高点で当選した。社会党は昭和26年に左右両派に分裂し、右派に所属した。昭和27年解散選挙で名古屋選挙区定数5で激戦区だったが当選した。当選を重ねる中、社会党の統一、自由党民主党との保守合同も達成され、2大政党体制が確立した。昭和35年民社党が結党され、国対委員長となった。11月の総選挙では民社党は現役40人が17名に激減した。中小企業のために民社中小企業政治連合(民中連)の喘息組織を結成した。昭和46年8月、西村委員長逝去のあとを受け党の委員長に就任した。前年11月訪米しキッシンジャー大統領補佐官国務長官と会談を重ね、委員長就任直後に王国権氏と会談した。

 

随想集

・娑婆の味放談 かねてから不動明王を信仰している。

・俺が浮き世のみちしるべ ◎障子を成し得ざる者いかで大事を‼ ◎自らを群盲の一人と悟るべし ◎言語は真言秘密の秘法なり ◎策謀はやめて、朴直に生きよ ◎頂上に大志を抱け ◎公人はもとより公事優先

恋愛至上主義で無病息災 色恋こそは衆愚凡夫の魂を岩清水のごとくに浄化する天然の装置である。私は英雄を尊恭する。ゆえに色事など慎んではいけないと思う。

・交遊のことあれこれ 鉄幹の詩「妻をめとらば才たけて みめ美しく情けあり 友を選ばば、書をよみて 六分の侠気、四分の熱」は上等の妻や友を目標においている。しかし巷にそんな美人や傑物はざらにいるものではない。