昭和55年8月4日1版1刷 昭和59年2月23日1版9刷
①晩酌を楽しむ演芸好きの母
②一高入学、活動写真通い
③京大時代、教授が縁談を
④日銀時代、異国で父の死を
⑤日銀をやめて伊藤銀行へ
⑥五十歳で応召、軍票整理
⑦CBCが全国に先がけ第一声
⑧中部経済圏の重要さを痛感
・明治26年福岡生まれ。一高を卒業し京大政治経済学科に入る。首席で卒業し日銀に入った。大阪支店、福島支店と転勤が続き、ロンドン代理店監督付き書記の辞令でロンドンに渡った。帰国後、国庫局、検査役、株式局、営業局を経て、日銀をやめて、伊藤銀行副社長に就任し、松坂屋の監査役になった。愛知、名古屋、伊藤の3行が合同して東海銀行が誕生した。銀行で非常勤取締役、伊藤産業合名会社の専務理事の仕事に専念した。昭和17年に数え年50で召集令状を受け、南京、上海に渡った。戦後、追放令を免れた松坂屋で副社長として統制が撤廃されると発展期を迎えた。名古屋商工会議所会頭に就任したのを機に松坂屋会長となり、中部日本放送の社長も引き受けた。昭和26年、民法16社のうち開業したのは大阪の新日本放送とCBCだけで、新日本放送より第一声は僅かに先行した。戦火で焼けた名古屋城も復活し尾張名古屋のシンボルとして喜ばれている。(昭和54年1月23日死去)