私の履歴書 藍澤彌八(東証理事長) 日本経済新聞社 経済人3

昭和55年6月5日1版1刷 昭和58年10月30日1版11刷

 

①先祖は鎌倉時代の武士

②人生の針路を変えた突風

③教科書事件の跡始末で苦闘

④日本精糖株で初もうけ

⑤友を助け損ねて無一文

⑥独立第一歩―港屋商店発足

⑦港屋商店建直しに成功

原敬総理に借金申し入れ

⑨大震災―取引所の恩人池田茂氏

昭和2年のパニック

張作霖の爆死事件

⑫取引所委員長に就任

⑬日本証券投資㈱を設立

⑭手がけた事業の思い出

⑮予約取り消した飛行機が墜落

⑯平和不動産の社長に

⑰各取引所の再建に当たる

⑱今の兜町は「実業」である

 

明治13年3月22日越後生まれ。藍沢家は古い家柄で庄屋をしていた。上京し日本法律学校(今の日大)を出た後、当時一、二を争う出版社金港堂に書生として原亮一郎さんの家に住み込んだ。1年後、教科書事件が起き、主人の家に家宅捜索が入り、帝国書籍は潰れ、金港堂も大損をし、その跡始末をするために作った五車堂で整理事業を行った。そこに出入りしていた石井捨三郎が高印という株式の仲買店をやっていて、そこで働く。これがきっかけで兜町で後半生を送るようになった。大島与吉という人が満州から帰国し、手伝ってくれと言われて27歳で満州に渡った。金庫番を任された。その後独立し、原さんに勧められて和泉商店という現物屋を始めた。原さんから株屋を手伝うよう言われ、港屋商店が発足した。50万の借金を背負う形になり、原さんの妹婿の山本条太郎さんに相談した。別個の商売を始めて借金を返し、港屋商店を私の名義に書き換えた。東京で懇意にしていた日本生命の支店長をしていた久世庸夫を頼って博多へ出かけ、取引所の主だった人を集めてくれ電話一本で注文が来るようになり、繁盛した。第一次大戦で非常な好景気となり、その後暴落した。困って時の総理の原敬に現金を用立てしてもらいに行き、話を納得してくれると時の蔵相高橋是清に電話してくれ救済資金を融通してもらい証券界は救われた。が大正12年の震災が遠因となって昭和2年に起きたパニックでは震災によって決済ができなくなった震災手形を救済するために日銀が割引を行ったが銀行不安が起き銀行がばたばたと潰れ、大暴落に陥った。昭和6年12月に犬養内閣が成立し金輸出を再禁止すると株が暴騰した。昭和8年に港屋商店改め藍沢商店となった。昭和15年に一般取引員組合委員長に就任。取引所は元々は商工省の管轄だったが、委員長の時に大蔵省に移管した。株価コントロール機関を作る必要があったので、大蔵省に説明し、各銀行に金を出してもらい、日本証券投資株式会社を創立し、社長に就任した。これを基礎に興銀が出資して日本協同証券株式会社が出来上がり、昭和17年には協同証券から身を引いた。昭和18年日本証券取引所が設立され、戦後、平和不動産の社長におさまった。日証の跡始末を付けるための会社だった。東証理事長を引き受けたのは、証券界は私の希望する方向に進みつつあり、昔のような危険がないからだった。(昭和36年東証理事長を退く。以後、40年まで藍沢証券会長をつとめた。44年1月29日死去)