「生きる」という贅沢 私の履歴書 淀川長治

1998年4月10日1刷

 

明治42年4月10日生まれ。届けには4月1日生まれになっている。父56歳の時の子供だった。置き屋だったのでませていた。8歳から映画館に一人で入館していた。10歳の時にみた「ウーマン」が私を生涯映画と共に生き抜こうと固く決心させた作品だった。慶応と早稲田の予科受験のために上京したが、当時日大は無試験だったのでそこに入学したと知らせ、半年分の授業料を収めてもらい、大学に行かずに毎日5館映画を見て回った。映画酒井に7種のペンネームで毎月投稿した。編集部の手伝いを求むとの編集後記を見て面接に行くと、淀川さんと名前を知っていたので驚いた。編集部での仕事は幸せだったが、実家に帰らざるを得なくなった。姉が兵庫の名門の池長孟氏と別れる時の得た金で西洋美術品店を開いて手伝ったが商人になるつもりがないので面白くない。映画映画一本ヤリで生きることに決め、ユナイト大阪支店の宣伝部の仕事を始めた。戦後、アメリカ映画がまたみられると胸のつかえがとれた。22年暮れに映画之友に入り20年も務めた。26歳の時、神戸の船の中でチャップリンと話をし、再びチャップリンと再会した時に神戸の船の中で話をしたことを覚えていてくれ、平成9年にはチャップリンの長女と会った。日曜洋画劇場を受け持ち30年以上が経過した。私は映画から3つのスローガンを貰っている。1つ目は「苦労こい」、2つ目は「他人歓迎」、3つ目は「わたくしは、まだかつてきらいな人に、会ったことがない」。いいツラの人は、いい心を持って生まれたからだ。