中村白葉(ロシヤ文学者) 私の履歴書 文化人3

昭和58年11月2日1版1刷

 

①墓碑に“味わい深く生きた”と銘す

②朝鮮航路の船長をしていた父

③生みの親に別れ、神戸から名古屋へ

④十三のとき元山から“父死す”の電報

⑤読書癖こうじて回覧雑誌発行

⑥東京外語にはいり『露西亜文学』創刊

⑦鉄道院辞職し、赤貧の新婚時代を送る

⑧大恩人叔父の死で“風樹の嘆”を知る

⑨ほくろ確かめられ涙ぐんだ母との対面

⑩流感の猛威、母代わりの叔母をうばう

⑪大震災で抄訳『戦争と平和』灰と化す

⑫倅“融”のこと-くどきおとし養子に

終戦後、教壇を去りペン一本の生活に

ソ連を訪れ“わがトルストイ”の墓前へ

⑮いくたびか偶然に救われた幸せな一生

 

明治23年11月23日生まれ。毎日2頁の日記をつけ続けてきたので、百冊を超える著訳書の何倍もの分量になっている。小2の時に育ての母は本当の母ではないと言われて、本当の母に引き取られた。家は破産したが、名古屋商業学校を卒業し、東京外国語学校露語科に入った。文学志望6人は狼社という結社をつくり、その中に一期一会の友、米川正夫がいた。卒業後鉄道院に勤めながらも勉強を怠らず続けた。神戸の転任を言い渡されたために退職し、九段下の忠誠堂で発行していた「中央文学」の編集をし始めた。新潮文庫のためにドストエフスキーの『罪と罰』の新訳の依頼を受けた。春秋社から『アンナ・カレーニナ』の新訳を頼まれ、文筆一筋の生活に戻った。完成後、『チェーホフ以後』、ソログーブの『小悪魔』、チェーホフ全集中の一編として『妻』という短編集を出した。次女を喪った後、レールモントフの『現代の英雄』、アルツイバーシェフの『サーニン』を手掛けた。震災後、創作小説『蜜蜂の如く』、『父の再婚』を書いた。電通文芸部で世話になった後、米川と相談して2人でトルストイ全集を計画した。岩波版トルストイ全集22巻は昭和6年に完結した。太平洋戦争が始まった翌年、陸軍に召し出され露語通訳の養成機関「教育隊」の教官となった。戦後、米川と協定して、米川の『戦争と平和』を私の新訳で、私の『罪と罰』を米川の新訳で、河出書房の全集中に出した。(昭和49年8月12日死去)