私の履歴書 広津和郎(作家) 日本経済新聞社 文化人1

昭和58年10月5日1版1刷 昭和60年3月20日1版3刷

 

①矢来町の文学者

泉鏡花に抱っこさる

③絶えず“理由なき反抗”を

④「奇蹟」のころ

⑤売れた「女の一生」の翻訳

⑥「神経病時代」の舞台

宇野浩二宅に転り込む

⑧処女作まで

 

明治24年12月牛込矢来町生まれ。数え年8歳で母と死別。矢来町の隣には尾崎紅葉がいたし、矢来町には漱石の奥様の実家があった。泉鏡花は作家の父柳浪を訪ねて来て話をしていた。しかし少年の頃には文学に興味はなかった。数え年12の時に麻布に移転し、霞町で早稲田大学時代を過ごした。中4の終わりごろ独歩の「武蔵野」を読み、正宗白鳥の「妖怪画」を読み、小説を身近に感じた。大学卒業後に3年兵役を1年に短くするために金が必要だったので、モーパッサンの「女の一生」を翻訳した。係の親切な忠告を受けて1年志願を撤回して3か月の教育召集で済ませた。「女の一生」の印税で借金を払った。毎夕新聞に入社したが半年で退社した。この時の見聞をヒントに「神経病時代」を中央公論に発表した。植林書院の翻訳部に入り、「戦争と平和」を翻訳した。この翻訳を宇野浩二に分けてから交友が始まった。「チェーホフの強み」という小論を書いて以来、文芸評論を頼まれるようになり、文芸評論家といわれるようになった。「転落する石」を書いて中央公論に正宗氏が送ってくれたが、70点だから80点のものを書いて下さいと言われ、次に書いたのが「神経病時代」だった。大正6年10月号の中央公論に発表された。(昭和43年9月21日死去)