三国志 第4巻 宮城谷昌光

2009年10月10日第1刷

 

裏表紙「董卓に大敗した曹操は、兗州を拠点に黄巾軍を味方に引き入れていく。だが徐州の陶謙に父を殺され、仇討ちに徐州へ大虐殺の軍を進めている間、兗州で叛逆が起き、窮地に追い込まれた。朝廷では董卓が謀殺されたが、董卓軍の将たちが幼帝を奪い合い、帝は都を出て逃亡する。孫堅は急死し、息子の孫策袁術を頼って揚州へ赴いた。」

 

劉表と戦っていた孫堅が、将軍黄祖の逃走先に単騎で追い掛けた。矢か岩が孫堅に降り注がれ、不運にも孫堅は命を失った。曹操の下に、荀彧(じゅんいく)、陳宮、程昱(いく)などが集まった。曹操は自軍の数倍の兵力を持つ黄巾の賊と戦い死ななかったが、鮑信だけは死戦を行った。曹操が毛玠の献言を受け容れた。兗州刺史に任じられた金尚に矛戟を向けた曹操は、金尚が頼った袁術と戦った。洛陽から引き揚げた董卓は、長安に長くとどまらず郿県に去り、朝政を遠隔制御していたが、王允は、天子を誅そうとする董卓呂布に誅させた。呂布は既存の秩序の尊崇者である。董卓の身辺警護を担っていたが、私通を働き、董卓から殺されそうになり、王允に相談した結果だった。王允は朝廷にいた皇甫嵩朱儁らの名将を使いこなせず処刑された。長安を攻め取った李傕(かく)は策謀家の賈詡(かく)を召喚した。賈詡は不安定な王朝では高い地位にのぼらぬことが身を損なわない初歩であると考えて尚書僕射でなく尚書の任命を受けた。呂布赤兎馬に乗って袁術に会いに行くが、袁術は会わなかった。已む無く袁紹に会いに行くと、袁紹張燕を討つために呂布に会った。袁術曹操の戦いは曹操が勝利した。陶謙曹操は戦った。陶謙は官を離れた曹操の父を殺した相手だった。数では陶謙が勝っていた。今の皇帝否定派の袁紹と、袁紹と戦う公孫瓚陶謙それに袁術の図式の中で、曹操袁紹の助力者の一人だが独自の外交を展開し朝敵という色合いを払拭していた。劉備陶謙を援ける名目で出奔しようとしていた。陶謙劉備を厚遇した。劉備は到着する前に曹操は兵糧不足のために籠城する陶謙の前から撤退した。曹操の親友の張邈は呂布を匿っていた。呂布袁紹の下から離れる際に暗殺されかけていた。孫策袁術を頼った。曹操劉備軍を破った。この時関羽張飛劉備の下にいることを曹操は記憶した。徐州をいためつけた曹操兗州に帰還した。陶謙が病没し、徐州の指導者には劉備が相応しかった。劉備は徐州で立つ決意を固めた。張超と陳宮が首謀して曹操を逐斥しようとした。張超は張邈の弟だった。張超と陳宮呂布を招いて曹操を討つと決めた。張邈は陳宮曹操を裏切るのを知って自身も曹操を裏切った。呂布兗州に入ったことを知った荀彧は張邈が裏切ったことを即座に見抜いた。夏候惇(とん)の敏捷が動きが鄄(けん)城の陥落を防いだ。兗州内の80の城のうち3城のみが残り、残りは曹操を裏切り、呂布の攻撃を凌ごうとしていた。折から蝗の大軍に襲われ、妻を袁紹に人質に差し出して和解することを真剣に考えるほどに兵糧も尽き苦んだ。苦労続きの中でようやく呂布の攻城をやめさせ迎撃の陣で一勝を上げた。じりじりと曹操呂布を攻め、呂布はついに徐州をのがれ、劉備を頼った。長安では李傕と郭汜(かくし)が献帝を人質にとった。天子の使者が曹操を訪れ、曹操兗州牧から除した。献帝楊奉と董承が守り抜き、李傕と郭汜が執念深く天子を拉致しようとしていた。献帝は安邑に入った。楊奉と董承に政治を行わせた。が2人には政治はわからない。そのため統率は乱れた。翌年からの建安年間は曹操の時代であった。