2023年10月18日第1刷
帯封「その信義は宇宙をもふるわせ、誠実さは天地をも感動させる 三顧の礼で迎えられ『天下三分の計』を献策、漢室復興のため帝と国に忠を尽くした名宰相。ただ賢と徳だけが人を服させる―伝説化された“天才軍師”の実像に迫る」「かれの人気は、おそらく劉備や関羽などをしのいでおり、どれほど時代がかわっても、最高でありつづけるにちがいない。通俗小説である『三国志演義』が、諸葛亮を万能人間、いわば超人にまつりあげてしまったせいでもあるが、そういう虚の部分を剝いでも、多くの人々の憧憬になりうる人物である―連載にあたっての『作者のことば』より」
荊州を出て益州に向かって2年半が経過した。荊州軍を率いて益州平定を援助する張飛、趙雲、諸葛亮の3人は平定の目途がつき次第、荊州帰還予定である。益州で劉備が州民を撫安し遠征の国力を確保後、関羽を上将に任命して北伐敢行する。54歳の劉備の年齢を考えれば10年以内に実現したい。劉備は益州を平定した。諸葛亮は、関羽には孫権が荊州を攻めてくる恐れがあるので警戒するよう書簡を送り、曹操がどう動くか注視した。孫権が動き曹操も動いた。荊州を割って劉備は益州に戻った。曹操は漢中を平定したのに引き上げた。曹操が国内に後顧の憂いを抱えていると判断した劉備は漢中を平定し59歳で漢中王となった。関羽が死に、曹操も薨じた。践祚した劉備は諸葛亮を丞相に任命した。張飛の仇打ちのため孫権を討つと決めた直後、張飛が死んだ。劉備は丞相を父と思って仕えるよう二人の子に遺言し63歳で崩御した。司馬懿を信用していた曹丕も40歳で死去した。22才の曹叡が即位すると、孫権は江夏群を攻めた。馬謖と問答をしているうちに出師の意思を固めた諸葛亮は、出師表を劉禅に奉った。冒頭は「先帝の創業いまだ半ばならずして、中道に崩殂す。今天下三分し、益州疲弊す。これまことに危急存亡の秋なり」で始まる。初戦の街亭の戦いで、先鋒の馬謖は、長期の戦いに備え、軍を南山に上げ、賊を迎え撃つという策を取り、給水路を作るべしとの王平の諫言を無視して、愚か極まりない戦術を取って大敗を喫した。馬謖は逮捕され処刑された。深く自らの戦術を恥じた孔明は自らを行丞相事に降格させ、以降不敗の戦いを続ける。孫権が践祚(せんそ)した。病床についた孔明は楊儀、費禕、姜維の3人を招き、自分の死後にどう軍を撤退させたらよいか教示した後、岱を呼び寄せ、孔明のあとつぎの諸葛瞻に、豫章のこと、叔父のこと、荊州のこと、隆中のことを語れるのは岱と斉方しかない、遺産とは財でも宝物でもなく、言葉であり、瞻を育ててくれと遺言した。巨大な星が五丈原に隕ちた瞬間、岱は巨星が墜ちた胸騒ぎを覚え、病室に戻ると、息なかった。孔明の死は伏せられ、蜀軍は粛々と撤退し、司馬懿が慌てて追撃すると、蜀軍は反撃の構えを示した。司馬懿は驚いて退却し、土地の者はそれを嗤い「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と言い合った。500年後、唐の玄宗皇帝が謀叛にあって長安を逃れて蜀に亡命した時、流泊した詩人杜甫が劉備と諸葛亮の事績を識って感動した。彼の詩の冒頭は「諸葛の大名 宇宙に垂る」である。