三国志 第11巻 宮城谷昌光

2014年10月10日第1刷 2021年7月25日第2刷

 

「晩年の孫権は老耄であった。あとつぎを二人立てて争わせ、諫言を呈した良臣を誅した。次代の皇帝は幼く、呉の国政を託された諸葛恪は軍事に着手。一度は魏に大勝するが、続けて無謀な遠征を行う。勝つということは智慧を育てないともいえる。一方、魏では曹爽一門が族滅され、政権の中枢が曹氏から司馬氏へと移ることになった。」

 

太子孫登の死去後、孫和が太子となり、孫権の弟の孫覇も魯王として処遇を等しくした。それは争いの元だと雇譚が上疏した。雇譚の祖父雇雍が死去後は、国政を任せられるのは陸遜しかいなかった。全琮、孫弘、全奇らの讒言を真に受けた孫権は、雇譚、雇承の兄弟、張休を処刑し、同様の諫言をした丞相の陸遜まで流刑となり、陸遜は悶死した。変わって歩隲(ほしつ)が丞相の位にのぼった。歴戦の将は朱然のみとなった。王淩は呉の太子をめぐる内紛を察して孫権の暗殺を企てたが失敗した。孫権朱然の上奏のままに魏の荊州攻めを朱然に命じた。兵書にある通り、形と勢が兵を制御する要であると考える司馬懿とは、曹爽の考え方は合わない。曹爽は詔を偽造し、独裁政治を行い、曹爽の佞臣である浮華の徒は何進の孫の何晏や丁謐を筆頭に賄賂や盗みを行った。風紀紊乱に眉をひそめた皇太后司馬懿に近づくが、皇太后の危険性に気づくと、曹爽は皇太后と曹芳を引き離した。司馬懿は病と称して政治と関わらなくなった。曹爽は曹芳を廃して自分が天子となる正当性があると考えた。それを阻止するのは司馬懿のため、曹爽は司馬懿の病を確かようとした。司馬懿は一世一代の衰えた振りをしたので、曹爽は警戒を緩めた。年が改まった正月、曹爽は天子の曹芳と共に曹叡の墓参りのため洛陽を離れて高平陵に向かった。その間隙を縫って司馬懿は郭太后に会い、曹爽の兵権を奪った。司馬懿は法の番人の高柔と良識の象徴といえる王観を味方につけて正義の旗を掲げた。桓範は洛陽から曹爽の下に駆けつけ、天子と共に司馬懿と対決すべきであると献言したが、曹爽は抵抗せねば罰を受けずに済むのではないかと考え抵抗しなかった。司馬懿は曹爽に謹慎するなら助命すると言い、これを受け入れた曹爽は邸宅に軟禁された。曹爽側近の何晏に調査を任せ、曹爽らは反逆の罪で死刑となった。何晏も同罪で死刑だった。司馬懿の粛清は曹爽の親族末端に及んだ。曹家と血縁関係の深い夏侯玄の軍権も取り上げられ、夏侯覇は蜀に亡命した。王淩の甥の令狐愚は、司馬懿董卓同様の国賊だと考えていた。曹操の晩年の子の曹彪が評判が良かった。令狐愚は曹彪なら出自不明の曹芳に対抗できると考えた。曹彪は令狐愚の背後に王淩がいるとは言え、容易に乗れる話ではなかった。令狐愚は病死したが、王淩は曹彪の即位を諦めなかった。70歳を迎えた孫権は自制が効かなくなり、太子の孫和より孫覇を贔屓し国が分裂し、孫亮が生まれると愛情が孫亮に移った。孫権は2人を疎ましく思い、太子孫和を廃し、孫覇を毒殺させ、孫亮を太子とした。司馬懿は王淩の謀叛に対し、曹爽と同様の手法を使った。王淩の子王広に使者を出し、速やかに降伏すれば助けると約束し、王淩はそれを信じて降伏するが一族全て処刑された。曹彪も毒を飲んで自殺した。魏の政権の主体が司馬懿に移った。司馬懿は程なくして死んだ。呉では孫権が病床にあった。太子は孫亮だったが、孫権は太傅に諸葛恪を、孫弘に傅佐を命じた。孫弘は孫権崩御後にそれを明かさず諸葛恪の失脚を計ろうとしたが、失敗して誅された。諸葛恪は堤防の修築を行い2つの城を築き、魏に圧力をかけた。魏の将軍諸葛誕がこれを攻撃すると、諸葛恪は丁奉を差し向け、魏は大敗した。蜀では諸葛亮の後継者蔣琬亡き後の費偉が暗殺された。費偉の後継者は姜維となった。蜀の姜維は西から魏を攻め、呉の諸葛恪は魏の国境を侵し合肥の新城に迫った。なかなか落ちない合肥の城を攻めあぐねた諸葛恪軍は疫病に悩まされ20万の兵力が半減し、僅か3000人の守備兵の合肥の城は魏から援軍が来ると信じて粘り強く戦った。魏の援軍が到着し、諸葛恪は撤退した。孫亮は諸葛恪に召還を命じ、帰国した諸葛恪は、敗戦の責任を取ることもせず、大船団を組んで徐州を攻めるという。孫亮の許しを得た孫峻は諸葛恪を誅殺した。呉の諸葛家は悉く滅された。魏では、司馬師が握る権力を奪うために、李豊が司馬師暗殺を計画した。李豊は司馬師への反感が強い夏侯玄、皇后の父張緝を誘うが、暗殺計画が露呈し、関わった者は全て処刑された。