三国志 第7巻 宮城谷昌光

2011年10月10日第1刷 2020年12月20日第3刷

 

帯封「荊州において劉備の勢力が膨張している。孫権は本気で荊州劉備に任せたのであろうか。北方にいる曹操の目には、両者は協調しているように映る。そして西方には馬超韓遂が—熾烈な戦いを進める初老の曹操にとっていまや蔵月さえも障害になりつつある。建安二十一年、魏王となった曹操は、後継を誰にするか迷いの中にいた。」

 

荊州四郡を治めた劉備孫権は妹を嫁がせようと縁談を持ちかけた。呉に出向くことに反対した諸葛亮だったが、劉備孫権と結ぶことで曹操と対抗する方がよいと判断した。だが劉備は荷を負わされ孫権は自分とは合わないと感じて帰郷した。周瑜曹操赤壁の戦いの痛手からまだ動けないと考えて蜀の地を得ようと動き出した。孫権周瑜を将軍とするつもりだったが、周瑜が病没し、劉備を代わりに将軍に任命しようとした。だが劉備は呉に宣戦し関羽張飛を遣わした。両者の関係はこじれた。曹操が蜀への入り口を開いた。張魯と力を合わせて蜀を手に入れようとした。張松と法正は主君の劉璋を見限り、劉備と連絡を取った。劉璋は法正を使いとして劉備を招き入れた。劉備劉璋と面会した。劉璋を暗殺するよう提案した龐統の意見を退けて劉備はまだ時期ではないと否定した。荊州にいた孫夫人は劉禅を拉致して船で呉に帰ろうとした。趙雲が追いかけ劉禅を探し出し、孫夫人は呉に帰った。劉備成都に向かって進軍する。諸葛亮荊州関羽を残して、張飛趙雲を率いて蜀に入る。遂に馬超が降伏し、包囲された劉璋も降伏し成都の城を出て、劉備印綬を差し出した。曹操は董昭の案を採用して爵を進めて国公となったが、荀彧はこれに反対した。荀彧は曹操から食を饋られたが、器をあけると中が空であったため、全てを悟った荀彧は自殺した。曹操暗殺の企みが明るみになり伏皇后は粛清された。曹操の歿後に献帝は長男の曹丕禅譲した。劉備が蜀を得たとの報せを受けた孫権は不愉快になり、諸葛瑾を使者に立てて荊州の返還を求めた。孫権荊州が支配地で劉備に貸しただけと認識していたからだった。劉備涼州を得たら返すと諸葛瑾に答えた。呉軍が荊州南部に侵入したため、関羽は軍を南下させた。合肥孫権に囲まれ、孫権軍10万に対し、城を守る合肥の守備隊7000の中から張遼は決死隊を募って一矢報いた。孫権は撤兵を決意した。益州の漢中郡と邑郡を押さえていた張魯曹操がぶつかるが、張魯は降伏した。