三国志 第5巻 宮城谷昌光

2009年10月10日第1刷

 

裏表紙「曹操はついに立った。天子を奉じることを決断。七年前に脱出した洛陽へと向かう。時代は、攅峰を均すという作業をはじめた。ひときわ高い山だけが残る。たれに帰服すればよいか―志のあるものは、高山の麓に集まりつつある。呂布公孫瓚袁術らが舞台から姿を消し、いよいよ曹操袁紹は天下分け目の『官渡の戦い』へ。」

 

孫策袁術の正体が偽君子であると心中で断定し、袁術の諒解を得て遠征することにした。孫策は呉に到着し、周瑜を出迎えた。袁紹は自らが天子になることを夢想した。献帝を今こそ守るべきとの沮授の意見を聞き、郭図を献帝に謁見させた。献帝に同情した郭図は沮授と同じ意見を袁紹に述べた。袁紹がぐずぐずしているうちに、丁沖の書翰が曹操に届けられた。曹操は天子を迎えるべく軍を洛陽に向けた。曹操献帝を許に迎え謁見した。曹操は荀彧の助言を入れて荀攸鍾繇(しょうよう)を招き、郭嘉を得た。劉備曹操に援けを求めた。劉備を逐い出した呂布は勝手に徐州牧と称し、その呂布と戦って徐州を取り戻すためだった。曹操は張繡(しゅう)軍との戦いで長子曹昴や典韋を喪った。特に曹昴を喪ったことで丁夫人も失った。袁術が皇帝と称した。袁紹袁術も自身が天子になることを志望していたから憎み合う二人だが大いに似ていた。袁紹曹操を嘲笑う書翰を送り付け、曹操袁紹と戦う覚悟を決めた。曹操袁紹をつけあがらせる作戦に出た。大将軍に任命し4州の総督を認可した。呂布には左将軍を任じた。曹操軍は張繡軍と再びぶつかった。曹操呂布陳宮を討ち取った。袁術は病死した。曹操劉備を左将軍に任じた。献呈は曹公を誅すべしとの密詔を董承に渡した。董承は劉備にそれを見せた。許を出た劉備曹操は召還しようとした。密詔を知った曹操は董承を誅滅した。曹操張繍賈詡を得た。曹操に近侍する許褚が曹操の暗殺者を近づけさせなかった。曹操袁紹との戦いの前に劉備を取り除くことを決めた。袁紹の動きは鈍く、先に劉備を攻めても曹操の背後を突くという行動に袁紹が出ないだろうというのが曹操の読みだった。劉備曹操が攻めてくると予想していなかった。曹操の攻撃を知って早々に逃げ出し、単騎で袁紹の息子袁譚を訪ねた。この時関羽曹操の勧告に従い降伏した。いよいよ曹操袁紹が対決する。数に劣る曹操袁紹軍をどう割るかを考えていた。関羽曹操の厚遇に礼をした後、曹操から離れるつもりだった。関羽は僅かな兵を連れて顔良の前に現れ、油断していた顔良の首を打ち落とし、曹操の手土産にした後、曹操の軍を後にして劉備を追い掛けた。袁紹田豊や沮授の良計を棄て、許攸(ゆう)の奇謀を無視した。袁紹に失望した許攸は曹操の陣に駆け込んだ。袁紹は強力な弓弩を武器にしていた。戦意が萎えた曹操を励ますために、荀彧は官渡の戦いこそ天下分け目の戦いであると書翰を送り、発石車で対抗した。劉備の下に関羽が戻ってきたため劉備曹操の背後を突くという理由で袁紹から離れた。袁紹曹操の大会戦の最中に孫策献帝を奪う挙に出た。がこの時、孫策に魔手に差し込まれ26歳という若さで死去した。許攸は袁紹の兵糧補給路を曹操に教えた。沮授は袁紹に手当をするよう助言するが袁紹聞く耳を持たない。補給路を守る将軍は曹操を甘く見た。官渡の戦いと言われるが、ここ烏巣の戦いと言って良いほど重要な局面だった。曹操が勝ち、袁紹は大敗した。袁紹は喀血して死んだ。