三国志 第2巻 宮城谷昌光

2008年10月10日第1刷

 

裏表紙「徳政を目指した順帝も急逝し、後漢王朝は外戚と宦官による腐敗を深めてゆく。そのような永寿元年(西暦155年)に、曹操は生まれた。続いて孫堅劉備が。三十年後、宗教組織・太平道の信者を核に三十六万人が黄巾の叛乱に応じた時、曹操孫堅は討伐軍に参加、劉備は学問を諦めて無類集団の中心となっていた。 解説・井波律子」

 

梁冀には贈賄と収賄が悪事であるという認識はない。敬愛する人を喜ばせようとする行為のどこが悪いのかと思っていた。質帝は梁冀という王朝の怪物を冷静に観ていた。9歳の質帝を梁冀は毒殺した。梁冀は蠡(れい)吾侯を皇位継承者にしようとしたが、謝暠は清河王こそ皇嗣に相応しいと考えていた。『孫子』に、戦いかたは、伐謀、伐交、伐兵、伐城の4つあるが、謝暠は、梁冀が宦官と交誼を持っているため、宦官との関係を切断し、宦官を味方につける「交を伐つ」ことが必要だと考えていた。そのため宦官への配慮を切言したが、清河王は宦官が嫌いだった。梁冀は子を喪い喪中でありながら、美貌に自信がある友通期のために小屋を建てて楽しく暮らした。妻孫寿が友氏一族を斬殺した。曹騰は梁冀に蠡吾侯を推した。蠡吾侯が皇帝の位に即し、桓帝と呼ばれた。梁冀は季固や杜喬を獄死させ、思うがままに振舞い、絶大な権力を握った。が梁冀が桓帝暗殺の使者を送ったため、桓帝は梁冀の息のかかっていない宦官を探し出し密命を与え、単超ら五候は、梁冀と孫寿を服毒自殺に追い込み、梁氏一門を悉く捕らえた。梁冀を誅殺した桓帝の親政が優れたものになったかと言えばそうではなかった。今度は宦官に政権が掌握された。宦官に敢然と対決したのは楊震の子楊秉だったが、亡くなった。楊秉の歿後に宦官の強権に屈しない尤なる者は李鷹(りとう)と陳蕃であり、この二人が王朝に大きなうねりを生じさせ、その下に幼童にすぎない曹操孫堅劉備の三人がいた。法を踏みにじっている宦官を嫌い憎む者は多く、宦官を震え上がらせた李鷹の名は天下に知られた。李鷹に認められて出入りを許された者は「龍門に登った」と羨望をもって称えられた。宦官達は彼らを獄に繫ぎ終身禁固に処した(第一次党錮事件)。36歳で桓帝が崩じ、竇皇后が皇太后となり臨朝した。父の竇武が解瀆亭侯宏を推挙し霊帝(第12代皇帝)となった。竇武は陳蕃(ちんばん)を中央に戻し、太傅に任命した。宦官の時代を終わらせためだった。李鷹らが中央に戻ってきた。陳蕃は宦官を一掃しようとしたが、竇皇后がその意見を容れなかった。宦官が反撃に出て、陳蕃と竇武には帝を弑す計画があると竇皇后を騙して陳蕃と竇武らを追い払った。宦官の勝利だった。天下の士は失望した。更に第二次党錮事件が起きた。隠棲していた李鷹、范滂、杜密らの清士が次々と逮捕され自害に追い込まれいった。天下の人々は望や志を失った。この年、曹操は15歳。曹操の異才を見抜いたのが梁国出身の司天橋玄だった。孫堅孫策が登場し、袁術袁紹が登場する。劉備盧植の門下生となり、公孫瓚(さん)と共に学んだ。司馬懿諸葛亮孫権がこの頃生まれている。霊力の強い張角が教祖となり太平道という組織が広がり始めた。この組織の拡充を見逃したことが王朝にとり致命的となった。霊帝太平道に恐ろしさをおぼえ、張角を逮捕しようとすると、張角らが一斉蜂起し、黄巾を頭に巻いたため、黄巾の賊と呼ばれた。36万余の人々が挙兵した。霊帝は党人の禁固を解除し、曹操を騎都尉に任じ、洛陽を守る援軍を差し出した。この時、曹操は30歳。曹操は、黄巾の賊を討つことは国勢の基本となる人民を殺し国勢を削ぐことになると考え、朝廷の愚かさを見た。民間の迷信をやめさせ、いかがわしい宗教を禁断した。盧植は戦場で宦官に賄賂を贈るのを断った。宦官は盧植を囚人として帰還させた。霊帝の意向で張角討伐に遣らされたのが董卓だった。が霊帝への忠誠心は皆無だった。