三国志名臣列伝 後漢篇 宮城谷昌光

平成30年2月15日第1刷

 

目次

何進(かしん)

朱儁(しゅしゅん)

王允(おういん)

慮植(ろしょく)

孔融(こうゆう)

皇甫嵩(こうほすう)

荀彧(じゅんいく)

 

何進の妹が女官として最高位の貴人にのぼりつめた。瓣を出産した。肉を扱う業者に過ぎない何進が皇帝にめされて郎中に任命された。時は黄巾の乱。首都の防衛のための大将軍に任命されたのが何進。宦官勢力を押さえつけるために何進を担ぎ賢臣が何進に助言した。その流れで袁紹劉表、王匡らが属官となった。何進の献言により新設された西園軍に8人の校尉が置かれ、その中に袁紹曹操がいた。霊帝の病が急に篤くなり34歳で崩御した。何皇后は自分の子瓣を帝位に登らせた。少帝である。宦官の最大の敵となった何進は宦官らの偽の詔により暗殺された。何進は宦官の一掃ではなく良否を峻別し粛清を断行しようとしたに違いないが、宦官を忌み嫌う勢力に担がれて清流の希望の星となった。

・首都に近い豫洲の潁川郡における黄巾の乱を鎮圧するために左中郎将に皇甫嵩が、右中郎将に朱儁が任じられた。朱儁が招いたのが孫堅だった。黄巾軍の主将との戦いに敗れた朱儁だったが、朝廷から発せられた援軍の将が曹操で、黄巾軍を大いに撃破した。隣の荊州南陽群に入り、降伏を告げた黄巾軍には、悪を縦して冠掠を長引かせるのは良計ではないと言って降伏を容れなかった。天子を攫った董卓と戦い、寡兵の朱儁は敗れた。董卓が暗殺された後、神算鬼謀をもつ賈詡(かく)から招かれて長官に向かったが、李傕(りかく)と郭汜の争いの最中に病死した。朱儁を称えたのは黄巾の兵だったのかもしれない。

・河南尹の李膺に面会できただけで名士に認定されたことから「登龍門」という語が生じた。その河南尹がわざわざ見送りに出た郭林宗が故郷に戻ると聞いて太守の代わりに出迎えたのが王允だった。河南尹から千里の名馬の顔をしていると言われた王允は覚醒した。太守から極悪の趙津逮捕を命じられた王允は命令を実行し、太守は趙津を誅殺した。ところが太守が獄死し王允は晋陽を飛び出し洛陽に向かった。新しい太守の怒りを買い獄に投げ込まれた王允だったが、出獄すると豫洲刺史に任命された、王允は黄巾の叛乱を鎮圧し、朱儁皇甫嵩に協力して数十万人を降伏させた。この時、王允は黄巾に通じていた宦官の奸曲を暴き、宦官から復讎されたが大赦により一旦は出獄したもののすぐに微罪で獄に繋がれた。大将軍の何進から助命を願う上奏文が霊帝にあがって死刑を免れたが獄中にとどめられた。大赦が再び下されたが王允だけは赦されなかった。宦官の毒は凄まじかった。だが王允にとり獄中は浩然の気を養う場となった。何進王允を従事中郎として呼び寄せた後に河南尹に転任させた。ところが宦官たちが何進を暗殺したため、王允は大将軍の仇を討つと宣言して袁術袁紹らが起動した。宦官らの大粛清が完了して最初に洛陽に到着したのが董卓だった。王允は天子を守り董卓の誅滅を考え、呂布董卓の郤を利用して董卓討滅を実行させた。

劉備の師である盧植は若い頃馬融に学んだ。馬融は梁冀に媚付して清卓の臣李固に罪を着せる文を書いた学者だが、その下から延篤のような芳草が生じたことから、馬融のことを調べてみると反骨の人であることを知り入門した。遅れて学友の鄭玄(じょうげん)が馬融の下に学んだが鄭玄は先に馬融の下での学業を完了させて旅立った。卒業した盧植は私塾をたてた。馬融が亡くなった年に党人逮捕が行われ、李膺をはじめ官民の尊敬を集めている清士が獄に繋がれた。桓帝崩御霊帝が即位すると第二次党禁錮が起こった。盧植は九江郡の群府に着任したが、中央政府に失望し故郷へ帰った。そこに入門したのが劉備公孫瓚だった。その後廬江(ろこう)太守となり、王朝中枢に位置する尚書に転任した。黄巾の徒が挙兵すると、黄巾の本拠を攻撃する将師に選任されたが、宦官に賄賂を贈らなかったために妄言され召還され尚書に復帰した。霊帝崩御すると何進が暗殺され宦官を罵った。董卓が皇帝を迎えに来た時に盧植董卓を悪人と見抜き発言し続けたために免官となり故郷に帰った。

孔融孔子の裔孫、二十世孫である。10歳の時、李膺を訪ね、李君の通家の子弟であると門番に告げ、李膺に会えると、我が祖先は孔子、李君の先祖は老子なので、我が家は李君の家と代々付き合いがあったと答えたことから、李膺が称めたことで有名人になった。宦官に睨まれた張倹が孔融の兄を訪ねた時、孔融が匿うと、兄弟して死罪覚悟で自らが責任を取ろうとしたことで更に兄弟の評判が天下に広まった。何進に待たされたことで立腹した孔融だったが、何進から辟召されて洛陽に行き侍御史に任ぜられた。董卓から単身赴任で北海国に赴く。孔融劉備がいた平原国に太史慈を使者として遣わし、劉備軍を味方につけたことで黄巾軍を追い払い窮地を脱した。晩年は曹操を批判したことで、曹操から罪を捏造されて処刑された。

・即位した霊帝は宦官に頼る政治を改める意いを秘めて皇甫嵩を徴召し、地方の長官を経験した後に中央政府に戻った皇甫嵩は党錮解禁を献言し、首都近くの黄巾鎮圧のために朱儁が右中郎将に、皇甫嵩が左右中郎将に任じられた。連戦連勝の皇甫嵩は無敵将軍となり、天子になるべきとの声は退けたが、霊帝が夭逝し落胆した。董卓から嫉妬された皇甫嵩は獄に繋がれたが、董卓暗殺後に病死した。

・荀彧は父が決めた宦官の娘と結婚し、出世が難しい立場だったが、曹操に見出され、なんじはわが子房(張良)であると賛辞を与えられた。しかし魏公になる野望を持った曹操に反対した荀彧は、献帝と引き離すために呼び出され、旅の途中で病となった。戦陣にいる曹操から送られた食膳を開くと空の器だったことから毒を飲んで死んだ。翌年曹操は魏公となった。

 

復習にはうってつけでした。