昭和59年5月2日1版1刷
①神奈川の田舎
②小学校時代
③県立第三中学
④六尺近い大男に
⑤東京商工に入学
⑥東北大学進学
⑦仙台の不士寮
⑧研究所入り
⑨研究、結婚、病気
⑩二年間の留学
⑪北大勤務13年
⑫北大から東大へ
⑬終戦まで
⑭化学行政への契機
⑮化学教育局長
⑯学術会議の思い出
⑰中・ソ文化交流
・明治31年12月21日神奈川県生まれ。厚木中学卒業後、蔵前の高等工業学校(東京工業大学の前身)電気科に入学後、東北大学理学部に進み、2年半で卒業すると金属材料研究所の研究補助として就職。その後北海道大学に理学部物理教室に赴任することになり、その前にドイツ、イタリア、アメリカに留学した。13年間札幌で過ごした後、東京大学に移る。航空力学講座を担当し、航空研究所の教授も兼任する。戦争中音響兵器の研究体制の整備にあたり、音響探知の方法を研究し、有効な方法を推薦すると沈められる船がなくなった。戦後、学術体制刷新委員会が昭和22年に発足し、委員会は現在の学術会議という学者の代表機関と、政府と学術会議との中間にある政府機関、化学技術行政協議会を作ることを決定した。東大の専任教授に復帰したのは24年3月。29年より学術会議の会長に選任された。中国とソ連との間にも学術交流の道を開くため、30年には16人でソ連と中国を回った。32年に学術会議の会長に再任されたが、東大学長選挙で学長に選ばれたことから月給をもらっている東大に重きを置き、学長に就任した。本年3月定年だが、後3年近くを学長として重責を果たせねばならない。