昭和59年7月2日1版1刷 昭和62年2月20日1版2刷
①渋谷生まれ、新宿育ち
②野球熱
③鑑三の教育観
④独協時代
⑤一高野球部
⑥野球をめぐって親子喧嘩
⑦三高に大勝
⑧早慶をシャットアウト
⑨好敵手松田君
⑩松沢病院の医員に
⑪ミュンヘン留学
⑫父の聴講生と結婚
⑬ミュンヘン余話
⑭北大教授に
⑮奇病の“イム”を解明
⑯東大へ転任
⑰素質か環境か
⑱兵士の精神疲労を調査
⑲帝銀事件
⑳野球への郷愁
㉑私の野球観
㉒精神病質の問題
㉓大川周明氏の精神鑑定
㉔日本医学会総会
㉕東大医学部長に
㉖道なお遠く
・明治30年11月12日生まれ。内村鑑三の一人息子。精神医学の研究に日夜没頭している。独協中学に入学したのは父がドイツ語を若い時に学ぶ必要があると考えていたからだった。松沢病院の医員になる。北大からドイツに2年留学し、30歳で北大教授に。足掛け10年の北海道生活後、東大に転任。併せて松沢病院長に。戦時研究として出兵兵士の精神疲労の問題を扱うためラウパルに行く。被爆犠牲者の脳も調べた。狂犬病予防接種後脳炎の発表は国際的に大きな反響を呼んだ。平沢貞通の精神鑑定を命じられ調査すると23年前に重い脳疾患を患いコルサコフ症を経過していることが分かった。もっとも責任能力については正常人に準じ取り扱われるべきとの判断に達した。東大医学部長、医学界の総会等、奉仕活動にも取り組む。精神医学の研究と教育、精神衛生の普及、医学界の世話役を務めてきた。日本学士院会員に選定されたこと、皇居における講書始めの儀に進講者として選ばれたことは栄誉である。(昭和55年9月17日死去)