「歌」の精神史 山折哲雄

2006年8月10日初版発行

 

裏表紙「著者から読者へ いま、叙情が危ない。われわれのこころの世界が乾き上がり、砂漠化しているのではないか。叙情を受け容れる器が損傷し、水漏れをおこしているからではないか。叙情とは、万葉以来の生命のリズムのことだ。魂の躍動をうながし、日常の言葉を詩の形に結晶させる泉のことだ。それが枯渇し危機に瀕しているのは、時代が平板な散文世界に埋没してしまっているからである。歌の調べが衰弱し、その固有のリズムを喪失しているからだ。いまこそ、『歌』の精神を取り戻すときではないか。」

 

目次

第1章 空を飛ばなくなった歌―美空ひばり尾崎豊

第2章 「短歌的抒情」の否定と救済―小野十三郎折口信夫

第3章 『サラダ記念日』の衝撃―斎藤美奈子と富岡多惠子

第4章 浪花節と演歌―朝倉喬司春野百合子

第5章 『平家物語』の無常観―小林秀雄唐木順三石母田正

第6章 吉川英治と『平家物語

第7章 挽歌の伝統と「北の螢」―古賀政男阿久悠

第8章 西行と啄木のざわめく魂

第9章 道元と白楽天

第10章 親鸞の「和讃」

第11章 親鸞和讃と今様歌謡

第12章 瞽女唄と盲僧琵琶―小林ハルと永田法順

第13章 西條八十北原白秋―日本的叙情

あとがき

 

川村学園女子大学の斎藤哲瑯教授が行った関東小中学生4千人を対象とした意識調査の中に日の出や日の入りを見たことが1回もないと答えたのが91年41%、95年43.3%、2000年46.1%と伸びている。

・短歌の叙情は、元来、変わることのない生命の泉であり、伝統に殉ずる切迫の情緒であった。これに対し演歌の感傷はどこか軽薄な勘定の遊戯に似ており、恨みとか未練とか恋情とかの抑圧され鬱屈した感情を一時的に解放するための解毒作用に他ならないとされ、横たわる対立の構造があり、その上、短歌が「文化」に属するのに対し、演歌はいつも「通俗」の側に格付けされてきた。短歌は我が光栄ある文学史の主流に位置づけられてきたのに対し、演歌はわずかに大衆芸能の一画を占めるに過ぎなかった。美空ひばりが明から暗へと転じていったとき、国家のほうは高度成長、経済繁栄の波にのって、暗から明への道を突き進む。ひばりの哀愁を帯びた演歌は次第に孤独の色を深くするが、その頃からひばりは滅びの歌をうたいはじめていたかもしれない。

・短歌にはかつて「身もだえする叙情」が流れていたが、今日の短歌に果たして叙情が存在しているのだろうか。新聞や雑誌に掲載される歌壇を読むと、歌の調べの乾燥の度合いがここまで来たかと驚く。湿った叙情にたいする軽蔑、敵意すらあるのではないか。逆に八代亜紀の「舟歌」にある叙情はそれを聞く人々の心の襞にひたひたと沁み通って行った。哲学者の森有正さんが安田講堂の闘争での演説口調を五五調だと言われたが、時代は五五調に飽き飽きし、五七調のリズムを復活させた『サラダ記念日』が全共闘運動の息の根をとめた。短歌的叙情がすっかり風化した歌の世界の現状を、富岡多恵子さんも斎藤美奈子さんも別の言葉で言っている。古くは小野十三郎さんも折口信夫さんも同様である。

・『平家物語』は耳で聴くものである。耳で聴かなければわからない。耳で聴こうとしない限り、小林秀雄が言うように月並みな思想の断片にしか映らないかもしれない。石母田正の『平家物語』(岩波新書)は「盛者必衰、諸行無常」における思想的、世界観的側面が重要なのではなく、滅びゆく者たちの個々の運命を描き出した叙事文学としての側面にこそ味読すべき本質があるといい。聴覚と視覚のいずれかを失わねばならなくなった時、学生たちは聴覚の放棄になだれ込んだが、私は視覚喪失を選んだ者は中世の「神」の世界に近く、聴覚喪失を選んだ者は近代の視覚市場の世界に近いと指摘した。石井宏氏の『反音楽史』は演奏者に注目し、追創造する人の良し悪しによって原曲が左右されることを指摘する。『平家』でも同様で、平家という譜面をどのような読み手がどのように演奏するかが重要であることを忘れてはいけない。

・森進一の「北の螢」を聴くと、和泉式部の千年以上も前の恋の歌が舞い出した。

ものおもへば沢の螢もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る(後拾遺和歌集

自分を捨て去って消えた男を思いつめていると、目の前を飛んでいる沢の螢の光が自分のからだから抜け出て行った魂かと見えた。「胸の乳房をつき破り/赤い螢が翔ぶでしょう」に重なる。

乃木希典の遺詠2首

神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにおろがみまつる(臣希典上)

うつし世を神さりましヾ大君のみあとしたひて我はゆくなり

明治天皇の遺体は殯(もがり)宮に7月30日から9月13日までの45日間安置されたが、乃木希典はこの期間毎日のように朝晩殯宮に参拝した。そして9月13日殉死を遂げるが、殯期間の終了後に明治天皇の魂は一直線に天の原にむかって飛翔していく。乃木希典は遺詠に詠んだ。

平岡正明氏は江戸時代の瞽女(ごぜ)唄が流行歌となり、それが明治の流行歌を生み出すが、やはり瞽女唄調で、それがやがて「演歌」を生み出し、その後そこにクラシック音楽がのり、ジャズがぶつかり、朝鮮メロディーが混じり込んで日本人の第二の天性とも言うべき音感が出来上がり、その混血音楽の洗礼を受ける中で、戦前・戦後を貫く演歌=艶歌の流れが作られたという仮説を述べている。(『大歌謡論』、筑摩書房、1989年27-28頁)。