短歌をよむ 俵万智

2015年12月10日発行

 

・短歌にするということは、非常に主観的な感情を、一度客観の網にくぐらせるということである。

・小さなことでも、大きなことでも、何かしら「あっ」と心が揺れるようなことがあったとき、人は歌を詠みたいと思うのではないだろうか。ところが題詠では何を詠むかが予め決められていることになる。感動もしていないのに、これこれこういう題で歌を作れと言われて、はいはいそれじゃあと読むなんて、まことに嘘くさい。・・が題詠による古典和歌の優れた作品を読むうちに、考えも次第に柔軟になってきた。

・その「あっ」が種になって歌は生まれてくる。紀貫之も、「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける。」と詠っている。・・短歌を詠むとは、感動の種を言葉に育て上げることなのだ・・自分の心が「あっ」と揺れたら、ただ揺れっぱなしにしておかないで、もう一度丁寧に見つめなおす。

・私はまだ形になっていない「あっ」のかけらたちを、感動の貯金と呼んでいる。すぐには使えなくてもしっかり貯めておくことが大切だ。

・「あっ」と心が揺れた。何かに感じることができた。ではそれをどう言葉にしてゆくか、が次の問題となる。心の揺れた場面から具体的に言葉を拾ったり、自分の思いを表す言葉を探したりしながら、なんとか三十一文字にしてみる・・・。

・気持ちと事柄とのブレンドーこの配合によって、短歌の味わいは、ずいぶん変わってくる。気持ちストレートの迫力と、事柄ストレートの説得力とを合わせた、オリジナルブレンド。その最も香り高いブレンドを目指して、あーでもないこーでもないと言葉を配合してゆくのが、短歌を作るということなのだろう。

 

第1章「短歌を読む」と第2章「短歌を詠む」は、あっという間に読めた。第3章「短歌を考える」は賛否があるように思う。ピンと来る人、来ない人それぞれいるだろうが、第3章はピンと来なかった。