馬上少年過ぐ《上》 司馬遼太郎

2010年5月20日発行

 

英雄児

河井継之助は、門閥でなかったが、郡奉行と町奉行を兼務し、年寄役に就き、藩財政を立て直し、借金まみれだった藩庫に多くの余剰金を作った。惜しむらく全て薩長の陰謀と考えており朝廷を中心とした統一国家をつくるとの頭はなかった。継之助は横浜から洋式兵器を大量に購入した(オランダ商人スネルからエミュー銃や高価なエンフィールド銃、四斤山砲も数門注文)。継之助は洋式の軍制で猛訓練を行い洋式武装藩とした。継之助が左足膝下に弾傷を負うと長岡軍の士気は衰え官軍に城を奪われて敗れた。維新後、継之助の墓碑は度々砕かれた。戦火で死んだ者の遺族によるものだった。英雄というのは、時と置きどころを天が誤ると、天災のような害をすることがあるらしい。

 

慶応長崎事件

 イギリス水兵2名殺害事件に海援隊の菅野覚兵衛と佐々木栄が関わった。パークスが怒り幕府に犯人を検挙せよと求める。龍馬はまずい時期にまずい事件が起きたと思わざるを得なかった。幕府にフランスが背後につくのを押さえるのはイギリスの役目だと考えていたからだ。坂本龍馬のアドバイスで交渉に当たった後藤象二郎はパークスに堂々とした態度で交渉に臨み、犯人検挙の為に懸賞金をかけるというポーズまでしようとした。菅野と佐々木は奉行の調べにも、龍馬のアドバイスで夢を見たとされて最期までしらを切って無罪放免となった。岩崎弥太郎だけ恐れ入れを命じられた。後にこの事件が蒸し返され、福岡藩の金子才吉が犯人であることが判明したが、既に金子は切腹して果てていた。パークスは容堂に英文で謝罪文を送った。

 

喧嘩草雲

田崎草雲は若いころ「あばれ梅渓」とあだなされていた。足利藩の足軽出身で、作品にけちをつけられると、暴れ出す。家督を弟に譲り、江戸に出て絵師として暮らした。妻お菊が草雲を支え、画業に励んだが、自分が何者かを思い悩んでいた。ある時、宮本武蔵の雅号「二天」とある鷺の水墨画を見て、気魄、画技、武術がバラバラになっている己に築き、お菊が死んだ後に生まれ変わることを誓い、詩人雲濤の影響を受けて勤王論者となったが、馬鹿にされたことに我慢ができず事件を起こして足利に戻った。大政奉還後、誠心隊を結成し隊長となった草雲は名将として活躍し、明治になると再び絵師に戻った。この頃から後世に残りうる作品が誕生し始めた。明治の二天といわれた。武技は武蔵に及ばないが画技はやや二天に近かった。