終わらざる夏〈下〉 浅田次郎

2010年7月10日第1刷発行

 

裏表紙「1945年8月15日、玉音放送。国民はそれぞれの思いを抱えながら、日本の無条件降伏を知る。国境の島・占守(シュムシュ)島では、通訳要員である片岡らが、終戦交渉にやって来るであろう米軍の軍使を待ち受けていた。だが、島に残された日本軍が目にしたのは、中立条約を破棄して上陸してくるソ連軍の姿だった。―美しい北の孤島で、再び始まった『戦争』の真実とは。戦争文学の新たなる金字塔、堂々の完結。」

 

8月15日、玉音放送が流れた。陛下から励ましを賜ったとだけしか言わない訓導もいる中で、ここが教育の正念場だと腹を括った訓導の中には日本の敗戦を正しく伝える者もいた。静代と譲は軽井沢で、浅草界隈で名の売れた渡世人から敗戦を聞き、電車賃を出してもらって上野に向かった。佐々木曹長玉音放送を聞き脳みそが思考停止してしまった。冨永軍曹の母は泣き、百合子はうれし涙を流した(第六章)。

その日、占守島に正しく玉音放送が流れることはなかった。昭和20年8月17日、司令部に各部隊長と日魯漁業関係者が集められ、カムチャッカ半島からの攻撃に備えた。15日以降、ソ連軍による散発的な爆撃と機銃掃射が続いた(第七章)。

上野駅から片岡宅に電話がかかり、久子は譲が上野駅に帰ってきたことを知り、急いで迎えに行く。渡世人は二度と戦争をするんじゃないと譲に諭す。戦車隊の生き字引の大屋准尉は満州に後妻の千和を残したことを後悔していたが、占守島では敗戦したからと言ってすぐに兵器を廃棄しない方がよいとの勘が働いた。ソ連軍の攻撃が始まった。二万三千の守備隊は孤立無援の戦いに挑むしかなかった。9月からシベリアに連れて行かれた(第八章)。

菊池医師は強制収容所で2年重労働に耐えた。熊男が母親に宛てた遺書を預かっていた。預かったノートには大屋准尉や中村伍作長の名があった。ノートから楕円の葉のひとひらひとひらが飯粒で捺されていた。敗戦の後に始まった戦争はソ連軍に多大の犠牲を強いた。千歳列島の武力占領というソ連の企図は挫折した。戦闘が終わり占守島の日本軍の武装解除を終えたのは8月24日だった。圧勝しながらの降伏だった。菊池は𠮷江少佐の検死を行った。𠮷江少佐は身分を明かすことないよう一兵卒として偽って亡くなっていった。最後にヘンリー・ミラー著「薔薇色の磔刑・第一部『セクサス』の抄譯が片岡直哉の名で掲載されている。