ハルビンからの手紙 日本は中国でなにをしたかⅢ 早乙女勝元編

1990年7月11日初版発行

 

目次

旅立ち前の手紙

ハルビンからの手紙

平房からの手紙

長春行き列車からの手紙

瀋陽からの手紙

撫順からの手紙

終わらない手紙

 

ハルビンの市街地は、中国東北地方の都市のなかで、もっとも異国風といわれる。帝制ロシアの頃、ロシア人技術者によって建設された町で、東清鉄道の建設から着手し、モスクワをモデルにしたという町並の歴史は、まだ新しい。

・「満州七三一部隊」は、通称は部隊長名をとって「石井部隊」と呼ばれていた。正式名称は「関東軍防疫給水部本部」。実際の活動は、対ソビエト戦に備えての大規模な細菌戦の研究と開発だった。ペスト、コレラチフス赤痢など細菌感染の生体実験材料として、反満抗日運動でたたかう中国人愛国者や、朝鮮人、ロシア人など、多数の捕虜たちが、もっともおぞましいプロセスで惨殺されていった。「マルタ」と呼ばれた犠牲者数は、ざっと3000人。誰一人として、生きて帰った者はいない。七三一部隊のキャップとなった石井四郎軍医中将が細菌兵器に目をつけたのはいつ頃か。その発端とされる石井四郎中心の防疫研究室が、東京・新宿の陸軍軍医学校に設置されたのは、1932(昭和7)年のこと。この組織は急成長をとげ、特別軍事施設が38年6月、ハルビン市郊外、浜江省平房(ビンファン)に完成。周囲約6キロ四方の広大な軍事地域に一大城郭のような秘密施設だった。1945(昭和20)年8月、敗戦直前の撤収作業で、残されていた「マルタ」は全員毒ガスで葬むられ、特設監獄などの重要施設の大半は、隊員ら自身によって爆破された。

・七三一細菌部隊の実態の一部が、はじめて明らかにされたのは、戦後四年目の一二月に開かれたソ連ハバロフスク軍事裁判の公判記録だった。七三一部隊の細菌戦準備が、かなり早い時期から対ソ戦を前提にして、そのために国境を接している満州ハルビン近郊に本拠が設けられた。同地域は「実験材料が充分にあったから」と、二重のプラス面があって、当初から人体実験をベースにしていた。一ヵ月間の細菌最大製造能力は、ペスト菌300キログラム、コレラ菌なら1トン。

瀋陽まできた著者は、確かめたい現場一つとして、満州事変勃発の三年前、関東軍参謀の謀略(ぽうりゃく)による張作霖(ちょうさくりん)爆殺現場の、市の西側郊外の「皇姑屯」(こうことん)という村に赴く。そして関東軍進撃の導火線となったもう一つの現場、これぞ一五年戦争の発端ともいうべく満州事変の引き金となった「柳条湖」(りゅうじょうこ)村にも。

・撫順は、瀋陽の乗へ約四五キロ、車で片道一時間半ばかりの炭鉱の町。ぜひとも行って見て、確かめなければならない大事なテーマ、それが、平頂山遺骨館。交通公社のポケットガイド『中国』のページによると、「日本人として、知っておかなければならないところ。一九三二年関東軍は平頂山の全村民三〇〇〇人を、抗日ゲリラに内通した嫌疑で崖下に集め皆殺しにし、山を爆破して崩れた土で遺体を埋めた。遺骨の埋まった坑は万人坑と呼ばれ、解放後発掘されて遺骨館が建てられた」とのこと。

 

ハルビン郊外の、関東軍の第七三一細菌戦部隊については、作家の森村誠一氏が下里正樹氏の協力をもとにして書いた『悪魔の飽食』(三部、角川文庫)で、もはや語りつくされているとのこと。今度、読まねばならない。撫順の遺骨館のことは初めて知った。知らぬは罪なりと痛感する。夥しい人骨の数々が写真に収められている。あまりにおぞましい。悲惨の極みである。