南京からの手紙 日本は中国でなにをしたかⅠ 早乙女勝元編

1989年9月27日初版

 

目次

上海からの手紙

南京からの手紙

再び南京からの手紙

証言からの手紙

眠れぬ夜の手紙

北京からの手紙

あとがき

さらにひとこと

 

日中戦争開始(1931年)から太平洋戦争終結(1945年)までの戦争の大ざっぱな経過

 第一段階=「満州事変」1931(昭和6)年9月18日、中国東北部の都市奉天(=現在藩陽)郊外の柳条湖で、日本軍が南満州鉄道に爆薬をしかけ、この小爆発事件を中国軍のしわざであるとして、全面的攻撃に突入。ほぽ4日間で南「満州」の主要な都市と鉄道を占領し、翌年春までに全「満州」を占領し、傀儡政権「満州国」をでっち上げた。

 第二段階=「支那事変」1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の永定河にかかる慮溝橋付近で夜間演習中の日本軍が、原因不明の射撃音を聞き、たまたま1名の兵士が行方不明だったことから、中国軍に向けて攻撃を開始。話し合いですむものが軍事衝突に。陸軍内部の強硬派はこれをチャンスとばかりに政府を突き上げ、ついに日中全面戦争となる。

 第三段階=太平洋戦争、1941(昭和16)年12月8日勃発。泥沼にはまった日中戦争の打開と、東南アジアにおける資源欲しさに、日本はヨーロッパでのドイツの勝利に刺激されて南方進出を企図。すでに前年9月にフランス領インドシナへ進駐、また日独伊三国同盟を結んで、アメリカ・イギリスとの対立は決定的となり、日本軍のハワイ、真珠湾奇襲攻撃から開戦となった。太平洋戦争は1945(昭和20)年8月15日、日本の全面敗北をもって終結

・イギリスの新聞『マンチェスター・ガーディアン』中国特派員ティバリイの『外国人の見た日本軍の暴行』1938年3月、アメリカのジャーナリスト『アジアの戦争-日中戦争の記録』エドガー・スノー、同じくアメリカの女性ライター『偉大なる道-朱徳の生涯とその時代』スメドレーが南京虐殺事件の資料として紹介されている。スメドレーは南京大虐殺数を20万人と書き、東京裁判の推計でも「殺害された市民と俘虜は総数20万人以上に達した」と指摘されている。

・李秀英さん、夏淑琴さん、藩開明さん、唐順山さんの4名の証言手記は生々しい。日本軍が南京に進入した当時、当時19歳で妊娠7か月の李さんの周囲の若い女性は次々と日本軍に連れ去られ凌辱の限りを尽くされた後に皆殺され、李さん自身も37か所に刺し傷があり子は流産し治療に7か月もかかった。9人家族の7歳の夏さんと妹だけ生き残り、それ以外の家族は凌辱された姉たちとともに日本軍に全員皆殺しにされた。二十歳の藩さんは300人の同胞と港に連れて行かれて機関銃の一斉射撃を受けて極僅かに生き残った8人のうちの1人。29歳の唐さんは200人程の同胞と残土に登らされ、その先の大きな穴は死体捨て場となっていたところで、仲間が次々と首を斬られて落とされていく中で九死に一生を得た。著者の南京旅行に通訳を務めた日本人は南京大虐殺の記録映画を見たショックで悪夢を連日見たこと、富永正三氏の『あるB・C級戦犯の戦後史』を引用しながら戦争が人間を人間でなくしてしまう恐ろしさを綴っている。

日中戦争の導火線となった盧溝橋とその近くにある中国人民抗日戦争記念館を訪れた著者のルポが写真付きで紹介されている。

 

戦争は残酷である。人間が人間でなくなるという恐ろしさをリアルに描いた書物や写真は、戦争をなくすためにも、もっと大勢の人に見てもらう必要がある。テレビは残酷すぎて流すのを躊躇っているのだろうと思うが、悲劇を繰り返さないためには、もっと報じるべきものは報じるべきだろうと思う。