奇貨居くべし1 春風篇 宮城谷昌光

1997年6月10日初版発行

 

韓の商人の息子呂不韋(りょふい)15歳は、父に言われて、従者鮮乙(せんいつ)と山師彭存(ほうそん)とともに旅に出た。時は韓と秦が連合して斉を攻めていた。旅の途中に水底の石が光を放っている川があった。光の正体は銅だ。その先に黄金の山があった。そこで金を採掘する商売に採算が取れるかを父は呂不韋を遣わせて判断しようとしていた。山師は呂不韋から黄金の気が立ったのを見た。鮮乙も同じだった。山師と別れ、鮮乙と2人で鮮乙の妹がいる中牟に向かった。主人と鮮乙の話しぶりからすると、魏冄(ぎぜん)が宰相を務める秦の滅亡は寸前であった。2人は邯鄲(かんたん)に向かった。道すがら、一人の男の死体があった。鮮乙は男から璧を取り出して身を隠すと、そこに男女2人ずれが男を追いかけて、楚の使者に高く売りつける前にものを取り押さえようと話している声が聞こえた。明るい所で取り出して見てみると、楚の国宝、和氏の璧と呼ばれる美しい宝石だった。鮮乙はかつて訪れたことのある趙の大商人の冥氏を訪ねると、冥氏は呂不韋と誼を結びたいと願い、呂不韋もこれに応じた。鮮乙の妹の鮮芳は冥氏の養女でもあったが、心に秘めた思いを持つ相手の藺相如(りんしょうじょ)と同じ清々しさを呂不韋に認めた。藺相如が楚人を連れて冥氏の家にやって来た。藺は宦者令の舎人だった。楚人は、後に春申君(しゅんしんくん)となる黄歇(こうけつ)だった。楚は秦との戦のために趙と結ぶ必要があった。そのために楚の頃襄王(けいじょうおう)は、和氏の璧を趙に譲り渡そうとした。それが盗まれたことを黄歇は藺に語った。楚と趙との密約を妨げようとする者による仕業であると思われた。楚の頃襄王の正夫人は秦の王女であったため、和氏の璧は秦に渡っていると思われた。黄歇は趙の賢臣であり藺が仕える宦者令の繆賢(びゅうけん)に縋った。その話をするために黄歇と藺が冥氏の家を訪ねてきた。すると呂不韋和氏の璧はここに、と言った。呂不韋和氏の璧を差し出すには、鮮乙への褒賞と自らを藺の客にしてもらいたいと述べた。呂不韋は鮮乙と別れて藺の家に落ち着いた。藺は繆賢の家臣として離宮の決定を聞くことができた。趙は燕と訂交する、魏との訂交を堅固なものする、斉攻めの趙軍を引揚させることになった。秦の昭襄王の生母の弟魏冄は和氏の璧の簒奪に失敗した陀方(たほう)に会い報告を受けた。宣太后の侍女の息子魏冄は、和氏の璧が趙に渡ったことを昭襄王に伝え、一計を案じた。十五の城と引き換えに和氏の璧を寄こせと趙に申し出ると、趙王の恵文王は極秘のはずの和氏の璧のことが秦に知られていると知り顔色を失った。秦との交渉に当たる使者の選定に難儀したが、藺が自ら名乗り出て、完璧帰趙と明言した。璧を渡さぬ使者を秦はやすやすと帰国させるはずがないとの遺言でもあった。呂不韋は従者として供させた。陀方の顔を知っているのは呂不韋だけでもあったからだ。旅の途中で魏冄と陀方が近づいてきたため、二手に分かれて魏冄らを撒いた。藺は秦が十五の城を割譲するつもりがないと秦の不誠実をみさだめた。昭襄王(しょうじょうおう)の手元に一度は預けた和氏の璧だったが、瑕があるのでそれを指し示そうと述べて返させると、藺は “きずなど、あろうか”と言葉を吐き棄て、璧を持ったまま柱によりかかった。『史記』は「怒髪上衝冠」と描写した。昭襄王は凍り付いたように動かない。斉の宰相・孟嘗君が動いたという知らせが魏冄に届いた。これと楚の頃襄王が結ぶと秦にとり最悪であった。5日後に奉呈することになっていたが、城を割譲するつもりがないことを見抜いていた藺相如は、和氏の璧呂不韋に託して、藺邑に逃げて欲しいと頼んだ。呂不韋は急いで戻ったが、到着するや意識を失った。藺の侍女僖福(きふく)が呂不韋を看病した。藺相如が奇蹟的に生還した後、意識が戻った。昭襄王が藺を殺しても璧は手に入らぬ、厚遇して趙に返す方がよいと判断して帰国させたのだった。呂不韋は名医と僖福の看病で一命を取り留めて快復した。