小説十八史略2 陳瞬臣

昭和52年12月20日第1刷 昭和55年10月20日第23刷

 

帯封「中国史に挑む三千枚の長篇 第2巻! 始皇帝の死後はたちまち反秦、倒秦の動乱の時代に逆戻りする。群雄割拠の中から、最後に秦にとってかわった漢-文帝・景帝に続いて、武帝の治世に漢の黄金時代を迎える!!」

 

天子の行列を見た項羽と劉邦項羽はとって代わってやる、劉邦はあんなふうになりたいものじゃ、と発言。ライバルの性格がみごとに描き分けられている。

李斯と趙高の共同で遺書が「胡亥を皇太子に立てよ」と書き換えられる。このため扶蘇は自決。二世皇帝の胡亥を丞相李斯と超高が操る。始皇帝の生んだ子は全て殺される。「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」で有名な陳勝は貧農で変人扱いされていたが、扶蘇の名をかたり、相棒呉広に「公子扶蘇と名将項燕の名を使う」ことを提案。

徹底した楽観主義の劉邦は推されて県令となり沛公と称する。

陳勝が殺され呉広も殺されて天下大乱の時、張良は無名の劉邦に出会う。人懐こい笑みをたたえ、反応が早く、しかもわだかまりがない。間違っていてもそれを指摘されると悪びれず訂正する劉邦を見て、人物であると直感する。

趙高は秘密を知る李斯を嵌めるべく二世皇帝に讒言し李斯を投獄させる。

陳勝呉広の挙兵は農民の造反であり天下大乱の幕が開かれた。

項羽はなにもかも自分でやらなければ気がすまない。なんでもやれるという自信を持っていた。それに比べると、無頼漢あがりの劉邦は、身の程をよくわきまえていた。だから、たとえば作戦にしても「わしより張良のほうが上だ。彼の言うとおりにしよう」と一切をまかせてしまう。自分の才能や力量を、むしろ過小評価するようなところがあった。いつも口癖のように、役に立つやつはいないかな、と言っていたが、そんな評判がひろがっていたるところで、いろんな人物が劉邦の陣地へ自分を売り込みにきた。劉邦はそんな連中を無差別に採用したのではない。口先だけで実行が伴わない人物を、彼はすぐに見破ってしまう。劉邦にすぐれたところがあるとすればそのような人物鑑識眼であろう。功があれば必ず賞す。これが劉邦軍の原則であった。項羽軍はどうかといえば、すべての手柄は項羽のもの。項羽の勢いをみて彼の下についた者も決して心服したわけではなかった。

超高は二世皇帝を自害させるが、扶蘇の長男子嬰(しえい)は、超高の本性を見破り超高一族を誅殺する。秦王子嬰が劉邦に降伏すると、周りは誅殺するよう言うが、張良は首を横に振り、劉邦も頷き秦王を味方に引き入れる。劉邦は秦の人たちに法三章の約束をし、秦の人たちから大きな喝采を送られる。この時、項羽は四十万の大軍を引いて攻めて来るが、秦の人たちは劉邦のために函谷関(かんこくかん)の軍備を増長して項羽の入関を防ごうとした。十万の劉邦軍と四十万の項羽軍。項伯から降伏するよう説得された張良の忠言に従い、劉邦項羽に弁明と謝罪のために、項羽の本陣「鴻門(こうもん)」へ向かう。張良、樊噲(はんかい)の機転で劉邦は脱出に成功する。項羽の軍師范増(はんぞう)が悔しがったのも当然。数日後、項羽は咸陽を焼き払い廃墟としてしまう。庶民の生活感覚に無縁な項羽だからこその暴挙である。庶民の生活感情に従い有頂天にならず冷静でいた劉邦項羽の違い。「楚の田舎者はただのえて公が人間の身なりをしているだけと聞いたが、はたしてそのとおりじゃな」との声が、故郷に帰った項羽の耳に入る。

范増を項羽陣営から除くことに成功した張良だが、榮陽城を包囲された劉邦軍は食料が尽き項羽の軍門に下る。替え玉で何とか脱出を図る。項羽は西に東に敵を追い叩き潰すが決定的な勝利を収めることができない。張良は「九十九敗して最後の一勝、決定的な一勝を得ればよいのです」と繰り返し言った。そして遂に乾坤一擲。韓信劉邦に乗り換え地すべり的現象が起こり、楚の垓下というまちに入り塁壁を築き十万の軍兵で籠城した項羽軍を三十万の包囲軍で取り囲んだ。その指揮を劉邦韓信にゆだねる。韓信は楚を出身者を選び出し楚の民謡を兵に教えさせコーラス団をつくった。四面楚歌である。韓信にはかつて背水の陣を敷いて趙軍を破った戦歴もあった。項羽は歌を詠み虞姫は返歌した。虞姫の血が落ちたところに可憐な草が芽生え、虞美人草(ひなげし)と名付けられたと言う伝説がある。彼女の墓所に生えた草という説もある。項羽は「時、われに利あらず」で自分の失敗を片付けた。まだ30歳を越えたばかりの項羽であった。項羽は烏江亭長の勧告に従わず両手両足をバラバラにされた。1050年後、烏江の古戦場を訪ねた詩人杜牧は「勝敗は兵家事期せず 羞を包み耻を忍ぶ是れ男児 江東の子弟は才俊多し 捲土重来、未だ知るべからず」と詠んだ。

劉邦項羽と違って天下を取れた理由について「はかりごとを帷幄(とばり)のなかでめぐらし、勝利を千里の外に決することでは、わしは子房(張良)にはかなわない。内政のきめこまやかさ、人民の心を収攬し、経済政策を巧みに実施して、糧道を確保することにかけては、わしは蕭何ほどうまくはやれんわ。大軍を指揮して、戦えばかならず勝ち、攻むればかならず取るということでは、わしとて韓信には及びはせぬ。三人はみな人傑じゃよ。わしはそれをよく用いた。・・・よいかな、それじゃな、わしが天下を得たのは。見よ、項羽には一人のすぐれた軍師がいた。それなのに、彼はよう用いなんだ。そう、むろん范増のことじゃ。人を用いることにすぐれていたかどうか、そこが天下取りのわかれ目だったよ」と。そして張良の言を入れて長安を首都とした。

 

一度は読んでみたいと思っていた小説十八史略2のうち項羽と劉邦にまつわる部分のあらすじを私なりに整理して書き出してみた。項羽と劉邦の人物像を見事に対比させた俊逸な作品だと思う。