20世紀の戦争 日中戦争Ⅱ 解説:荒井真一

2001年3月15日初版発行

 

目次

一章 重慶爆撃

二章 中国全土に広がる戦火

三章 中国軍の反攻と在中アメリカ軍

四章 日本の降伏と中国の民衆

    解説

 

・1937年12月、中国の首都南京は日本軍の手に落ち、国民政府は首都を重慶に移した。この時から重慶は中国の自由のための戦いのシンボルとなった。日本軍は1938年末から重慶に本格的な空襲を開始した。重慶空襲は、70万の住民の住む大都会に対する無差別爆撃で、住民を目標にしたテロ爆撃だった。空襲は断続して43年夏まで5年間続き、日本陸海軍機のべ9500機が来襲、2万1500個の爆弾を落とし、市民2万6000人を死傷させた

・1942年初冬の日本陸軍の総数は、210万人といわれる。そのうち85万人が中国の戦場にあった。日本軍にとって中国はいぜんとして主戦場であった。1941年12月に開始される太洋戦争自体、日中戦争の行き詰まりを打開するための南進という性格を持っていた。

・ドイツ空軍がスペインの都市ゲルニカに加えた爆撃は、画家ピカソによって形象化されて壁画となり、37年のパリ万博の呼び物となった。イギリスで巡回展示された後、アメリカ各地でも巡回されていた中での日本軍の重慶爆撃だっただけに世界のメディアの関心は高かった。

アメリカの中国通の将軍スティウル中将は、蒋介石の参謀長を務めるとともに、中国・ビルマ・インド地区のアメリカ軍の指揮権を与えられ、43年12月、スティウルは新編中国軍を率いてインドから北ビルマの入り口にあるフーコン河谷に進入し、国民政府軍もサルウイン河を強行渡河し日本軍の占領していた謄沖を解放した。これらの反抗作戦は中国軍が正面から日本軍を攻撃して勝利した最初の戦いであり、兵士たちは「われらも日本軍を破ることができる」という自信を持った(石島紀之『中国抗日戦争史』)。

 

日中戦争Ⅰと同様、豊富な写真に思わず目を奪われた。