ゲルニカ ナチ爆撃のスペインの町 早乙女勝元編

1997年4月24日初版

 

表紙裏「ゲルニカは、スペイン北部バスク地方の小さな町です。スペイン戦争さなかの1937年4月26日、フランコ反乱軍を支援するドイツ空軍の猛爆撃によって破壊され、市民多数が死亡しました。その爆撃の報道に衝撃を受けて描いたピカソの代表的絵画が、今世紀の大作「ゲルニカ」です。私はいつか機会があったら、ピカソの「ゲルニカ」も見たいし、そのテーマとされた惨禍の町へも足を向けたいと思っていました。私が16歳で体験した東京大空襲や、広島・長崎の原爆の大量殺戮ともいうべき大規模無差別爆撃の軌跡を振り返るとき、ゲルニカはその発端となった町だからです。(「あとがき」から)」

 

目次

1 ゲルニカへ行ってみるべし

2 スペイン戦争と一人の日本人

3 バルセロナからセビリア

4 ピカソの「ゲルニカ」との対面

5 惨劇の町ゲルニカ探訪

6 トレホン米軍基地は撤去された

あとがき

 

・「スペイン戦争は、人民に対する、自由に対する、反動の闘いである。わたしの芸術家としての全生涯は、もっぱら反動と芸術の死に反対する絶えざる闘争であった。ゲルニカと名づけるはずの、いま制作中の壁画においても、わたしの最近のすべての作品においても、私ははっきりとスペインの軍部に対する憎悪を表現している。軍部こそはスペインを苦しみと死の海に投げ込んでいるのだ」(『ピカソ』大島博光)。「ゲルニカ」制作中にピカソはそう声明した。

・信頼できる証言によれば、爆弾で破壊された集合住宅は七二一戸だった。このうちの七一%が全壊で、七%がかなりの被害を受け、二二%が軽い被害だった。無事だった建物は、わずかの一%に過ぎなかった。しかし、これだけ深刻な大被害にもかかわらず、当初の爆撃目標だったレンテリア橋や、修道院、そして町議会と聖なるゲルニカの本も無傷のままに残された。

 

ピカソゲルニカという作品の下になっているゲルニカにどんな戦争の傷が遺されているのか、現地を直接訪れて探ろうとした著者の平和旅の一コマ。マドリードに行ったら、ソフィア王妃芸術センターに是非とも足を伸ばしたい。パリ万博で展示された作品で、20世紀の反戦の象徴のような絵画だ。