公乱記 下巻 宮城谷昌光

2004年3月20日発行

 

もっとも、この故事から「馬鹿」という熟語が生まれたというのは俗説である。もとはおろかさをいう梵語で、その音に馬鹿という字をあてた。とはいえ、胡亥ほど馬鹿な皇帝も珍しい。蘭が皇帝の下で弓を教える立場を得た。皇帝を殺すチャンスを手に入れた矢先、趙高が謀叛の兵を挙げたため、蘭は父の仇を討つチャンスを逃した。趙高は弟の趙成をして皇帝を殺させた。趙高は公子嬰を玉座に座らせ秦王とし、蘭は咸陽を去った。しかし趙高は秦王嬰に粛清された。田横は蘭と再会した。が初めて女であることに気づいた。が女であれば斉王の后になるしかなく、そうでなければ男子として生きていけると告げた。田栄は項羽の使者を退け、斉王の田市に項羽の恫喝に負けてはならぬと説いた。田市が死に田栄が斉王となり田横が宰相となった。盗賊団の頭彭越は、項羽でも劉邦でもなく、田栄と田横兄弟こそ倫理が際立っていると見定めて斉兵となった。劉邦は楚王の王朝を正とし、項羽の王朝を否とする運動を起こした。田栄が保ってきた斉国が項羽との決戦で敗北し崩壊した。田横は城陽を堅城に作り替え、項羽との戦に備えた。項羽軍の補給路を断ち、100日分の兵糧を蓄えた上、田横は三千の兵で項羽軍を奇襲した。項羽の前に姿を見せた田横は項羽を倒すことができなかった。田横は阜に逃げ込んだ。兵は半減した。季布が追い掛けてきた。一度は追い返した田横だったが、二万の兵が押し寄せてきた。するとその直後、60万の兵で劉邦が彭城を取ったと知り、項羽は三万の兵で劉邦を討ちに向かった。これにより田横は楚軍を打ち破り城陽に戻った。田広が斉王になり田横は宰相となった。項羽はこれを認めた。彭超は魏の相となった。田横は、項羽は政治と外交は稚拙だが悪人と言い切れないところがあり、劉邦項羽より質が悪いと見ていた。項羽と劉邦は中原で戦い続けているうちに田横は斉国を富ませた。項羽の下にした范増が死んだ。劉邦が勝つのではないかとの予感がした。田横は劉邦との戦いを回避するため同盟する道を選んだ。が騙し討ちに遭い、弟のような華無傷と田解が韓信に殺されてしまった。田横は執政の田光を救うため臨淄城に向かった。漢に追われた田横は彭越の城に向かった。斉王の田広も殺された。田横は即位せざるを得なかった。韓信は斉王になることを劉邦に認めさせた。劉邦項羽との戦いで余裕がなく認めざるを得なかった。漢の丞相の曹参が臨淄の田横に降伏を勧めたが、田横は応じない。劉邦項羽を葬った。次に斉王韓信の軍を奪い、韓信を楚王に移した。田横は廟島列島に逃れた。田横は自ら首を刎ねて藺林をして劉邦に届けさせた。藺林は劉邦から都尉に任命されたが、田横の墳墓の隣に穴をつくり自らの首を刎ねて穴に墜ちた。田横の食客は戦い抜き、田横が葬られた墓の前で全員が死んだ。劉邦は本当の士を得ていたと溜息を尽きながら言った。

 

劉邦が悪人として描かれていて、別の劉邦の面を見た思いだ。田氏兄弟と対比すると確かに劉邦が悪人になってしまうだろう。後世の人が歴史上の人物をどう評価するのかという問題は本当に難しい問題だと改めて思った。