孟嘗君4 宮城谷昌光

1998年10月15日第1刷発行 208年10月10日第30刷発行

 

裏表紙「馬陵の戦いで、斉は魏に大勝するが、斉王の周囲で佞臣が暗躍を強める。田嬰・田文父子は、有能な食客たちの力も使って必死に対決する。周で商人として成功し、仁愛の事業を進める白圭を訪ねた田文は、そこで哀しい美女洛芭を知る。戦国時代も半ば、次第に英傑の稟(ひん)性を示しはじめた田文は27歳になった。全5巻。」

 

別の魏軍も斉の国を守る一万の弩兵の餌食となり、馬陵の戦いを境に魏は衰弱の道を辿り始めた。魏軍の大敗を聞き、翌年公孫鞅は秦軍を率いて魏を攻めた、膠着状態に陥り公孫鞅は詐術を用い、これが公孫鞅生涯の唯一の汚点となった。田忌は凱旋将軍として迎えられようとしていたが、孫臏は将軍田忌を嫌う鄒忌の動きを心配すると、案の定、鄒忌は斉王に田忌を謀反人に仕立て上げて、将軍田忌は楚へ亡命せざるを得なくなった。謀叛の罪を被せようとしたのは、田嬰を誤解した隻真と隻蘭で、田嬰は隻蘭を威王から遠ざけるために女装に長けた遠芝を送り込み特殊な馬車を用意し睡眠薬を田文を通じて遠芝に渡した。田文は一度は隻蘭奪還に成功したが、結局は鄒忌の手に落ち、鄒忌から公子緩の手に渡った。田文は田嬰が嫡子とする気がないため隻蘭を奪還させたと思い、斉を出る決意を固めた。田文が寄った隠れ家に何と隻蘭と公子緩がいて、隻蘭が斉王の子を身籠ったことを知った。田文は公子緩を眠らせ、“康姜(こうきょう)さま”と呼び、味方ですと言いながら隻蘭を馬車に乗せて父のいる周に向かった。周には商売の時機を捉える天才白圭がいた。商人ながら「史記」、「孟子」、「韓非子」にその名と業績が刻まれた。白圭は本当の仇が鄒忌であることを隻蘭に教え、隻蘭は洛芭(らくは)と名を変えて生まれ変わった。白圭は人民のために黄河の氾濫を防ぐつつみをつくる大事業に取り掛かっていた。白圭の私財によって起こされ続けられていた。孟子は仁義を説くことで民を救おうとしたが、白圭は自らの手で仁義を表現した。“人によって儲けさせてもらった金だ。人に返すのは当たり前だよ”と治水工事の時に述べていた。田文は助力を申し出た。洛芭が男子を産んだ。子は鄭両の子として育てられた。秦で公孫鞅が殺された。田文は食客を率いて蜀に向かった。道案内は蜀人の鹿速が務めた。蜀に向かったのは公孫鞅の妻風麗らが蜀に入ったので風麗らを救うためだった。洛芭が子を産んだと聞き、田文は自分の子だと直感した。ところが洛芭は行方不明となっていた。蜀で風麗らを無事救出した際に田文は公孫鞅の師だった尸校らと出会い、尸校は田文に対しいずれ天下は文を中心に動くようになる、その時、仁義を忘れないようにと忠告した。田嬰が田文を訪ね、韓都に行くのに同行するよう言った。歴史は大きな転換点に立っていた。覇権が魏から斉に移ろうとしていた。洛芭は一足先に韓にいた。斉の田嬰は持ち前の外交力を駆使し、斉の国内にある平阿の南で、斉の威王、魏の恵王、韓の昭侯の会合を実現させ、盟約を結び、斉と魏は王であることを天下に告げ、周や魏中心の時代を終わらせた。外交で著しい成果を収めた田嬰は宰相の地位に就いた。田文が洛芭を嫁にもらった。洛芭との結婚に反対だった田嬰は田文を阿呆めと蔑んだ。