孟嘗君1 宮城谷昌光

1998年9月15日第1刷発行 2010年12月15日第29刷発行

 

裏表紙「斉の君主の子・田嬰の美妾青欄は、健やかな男児・田文を出産した。しかし、5月5日生まれは不吉、殺すようにと田嬰は命じる。必死の母青欄が秘かに逃がした赤子は、奇しき縁で好漢風洪に育てられる。血風吹きすさぶ戦国時代、人として見事に生きた田文・孟嘗君とその養父の、颯爽たる人生の幕開け。(全5巻)」

 

斉の首都は臨淄(りんし)で、五十万都市となっていた。僕延は、斉の君主の子田嬰邸の清掃を仕事としていた。田嬰の妾である青欄が泣いていたので理由を聞くと、産んだ男の子が5月5日生まれで、嬰から不吉だから殺せと命じられたとのことだった。僕延は自分が匿まうと言い、赤子を背負って邸内を出た。この赤子が後の孟嘗君である。僕延はかつて盗人だった。僕延が司寇(警察長官)の射弥(えきや)の家を訪ねた。僕延はある時から射弥の手下となり射弥が大悪人と呼ぶ田嬰邸に潜り込んでいた。赤子を連れて射弥の家に行くと、射弥もわが君のご息女だと言って赤子を匿まっていた。斉はもともと太公望がつくった国で、その子孫が君主の位をつぐが、ある時、陳から公子の田氏が亡命し臣事すると宰相を務め遂には巧言をもって独裁者となったから、嬰は大悪人と呼ぶにふさわしいとのことだった。僕延は青欄から子の預け先を見たいと頼まれて見に行くと、射弥や妻が斬殺されており、赤子二人の姿が消えていた。風洪(ふうこう)と妹の風麗は異母兄妹だが、風洪は荷の運送の護衛に当たる仕事をしていた。彼の仕事は何故か盗賊に襲われなかった。風麗は宮中にあがり太子のお手がついたと言い、空腹なのに子を産んだことにするので、赤子を一人さがして欲しいと兄に頼んだ。風洪は産みたくない子を産む女がいると聞いた遊里へ行き、そこで赤子をもらうつもりだった。ところが隣室で射弥という男と赤子を殺すという男達の密談話を聞き、その赤子をもらうことにした。男達をつけて射弥宅に行き、男達を始末して、赤子のうち男の子だけ風洪はさらった。もう一人の女の子は置いていったが、その直後にこの家を訪ねた射弥の妻の弟隻真が女の赤子を連れて行った。隻真は家を覗いていた者の跡を追い、その者が田嬰家に入ったので、田嬰が犯人だと思っていた。風洪は商人の斉巨(さいこ)から荷が魏に向かって出発したので明朝追いかけた。出発の前夜、家に帰ると風麗と侍女の翡媛が倒れていた。赤子に文の刺青があるのを太子が見つけて風麗の偽装が笞打ちの刑を加えられて2人は瀕死の重体だった。風洪は、風麗、翡媛、男児の3人を連れて魏へ向かった。魏には公孫鞅がいた。かつて風洪は公孫鞅の世話をし、公孫鞅は今では魏で中庶子になっていた。風洪らが荷に追い付いた。荷の運送の宰領をしている男は厳建といった。風洪を慕う土救が同伴した。斉巨の荷は斉の国境を越えて魏の安邑(あんゆう)に到着し、鄭両という商人の家の蔵に収まった。風洪の下に公孫鞅が訪ねてきた。公孫鞅は風麗を妻としてもらいたいといい、しかも大望がある、魏の宰相になりたいとも言った。現在の宰相の公叔痤は戦いで傷を負い主君に公孫鞅を推挙するつもりだとのことだった。そして更には農業と戦争をもって中国統一を目指していた。恵王は病状の悪化した公叔痤を見舞った際に公孫鞅を推挙されたが、黙っていた。公孫鞅は魏を出て秦へ行くことにした。鄭両は秦公の側近である景監はものわかりがいい、要するに賄賂次第で秦公に会うことも可能だといった。公孫鞅は秦に行く前に風洪に、風麗をもらいたいと頭を下げ、秦行きには風洪も同行した。公孫鞅、風洪、風麗、翡媛、翡媛、田文らは秦に向かった。風洪は無性に学問がしたくなった。公孫鞅は景監を通じて孝公に会った。公孫鞅は孝公に、君主の道は帝道、王道、覇道とあるが、どの道を歩みたいかと聞いた。帝道というので、帝道を話したが、孝公にとって詰まらぬ話の連続だった。次は王道を話したが、これも詰まらぬ話だった。しかし景監は面白く聞き、なおかつ孝公に真情を吐露しなければ公孫鞅も真の政策を述べないと助言し、三回目の時には孝公自ら全身に真摯なものをみなぎらせて秦を強くしたいと述べると、公孫鞅は王道に近道があるとすれば国家の治安をおいてなく、そのために法を貴族であろうと平等に適用せねばならないことを説いた。以降、連日、公孫鞅は孝公に古今無比の計策を披歴した。孝公は公孫鞅の策を実行することは老臣達から反対され自らも暗殺されかねないと考えたが、敢行することを決断し、公孫鞅に官職を与えた。妻の風麗は涙を流して喜んだ。風洪は学問をするため、赤子の出生を突き止めるために、斉へ戻るという。公孫鞅は自らの師でもあった尸校(しこう)を勧め、尸校を約束通りに秦へ連れてくれば問題は解決するといった。幼児は翡媛に任せて、風洪が臨淄に戻ると、隣に住む隻真が姿を現した。