孟夏の太陽 宮城谷昌光

2020年1月10日新装版第1刷

 

裏表紙「中国春秋時代の大国・晋。この国の重臣を代々務めた趙一族。太陽の如く酷烈な趙盾、族滅の危機に瀕した趙朔、名宰相・趙武、王子朝の乱を鎮定した趙鞅、その子趙無恤。200年にわたる一族の興亡を、透徹した歴史観と清冽な筆致で描いた著者初期の傑作。指導者に求められる『徳』のありようをめぐる物語。解説・平尾隆弘

 

孟夏の太陽

晋の国の公子であった重耳(ちょうじ)は、内乱の飛火に追われて、狐氏の邑へ逃避した。当時42歳。重耳の妻の父狐偃は、季隗を重耳に娶らせた。重耳は妹の叔隗(しゅくかい)を臣下の趙衰(ちょうすい)に娶らせた。趙衰と叔隗の間に生まれたのが趙盾(とん)である。盾にとって趙衰は父であり、学問の師であった。父が去ってからは母が師となった。盾が10歳の時、重耳は邑を去り、父の趙衰も重耳に従った。重耳主従には予想を上回る苛酷な旅が待っていた。19歳の趙盾は狐氏の邑にいた。後に重耳は晋の君主となった。だが、父・趙衰は母子を呼び寄せなかった。趙衰は重耳の娘を娶ったという噂が流れた。娘は君姫(くんき)と呼ばれた。趙盾と叔隗は趙家に入った。君姫は正室を叔隗に明け渡して後室に退いた。君姫は三人の子を産みながらも、いずれの子にも趙盾を長兄として敬うように厳しくしつけた。重耳の死の6年後、趙衰が死去した。趙盾は33歳で趙一門の総帥となった。趙盾は欲のない男だった。中軍の佐に任命されたが、すぐに中軍の将、元帥となった。中軍の将とは軍事の最高責任者であり、閣臣の正卿(首相)でもある。晋君が病没し、後嗣問題が浮上した。趙盾は秦にいる公子雍(こうしよう)を迎えるつもりでいたが、異を唱えたのが賈季(かき)だった。趙盾は賈季を無視する形で秦に使いを出した。賈季が推した公子楽が国境を越えたため、趙家は兵を出し、公子楽を殺した。晋の先君の正妃であった穆瀛(ぼくえい)が太子・夷皐(いこう)を跡継ぎにと泣きつき、夷皐が即位した。が、夷皐は愚者であった。夷皐は趙盾を殺そうとしたが、危機一髪のところで霊輒(れいちょう)に救われ趙盾も逃亡した。夷皐が急死し、趙盾は晋都に戻った。夷皐を暗殺したのは趙穿だった。趙穿を処罰しなかった趙盾は、趙盾が晋君を殺したと内外に公表され、罪を一身に背負い、正卿を辞した。

 

月下の彦士(げんし)

趙朔(さく)は父・趙盾の喪主として葬儀に臨んだ。側には程嬰がいた。この葬儀で公孫杵臼(しょきゅう)と初めて会った程嬰は杵臼を快く思わなかったが、二人は後に身命を擲って趙家の命脈を繋いだ。喪が明ける頃、楚が鄭を討つために動き出した。鄭は中国の交通の要地だった。士会が上軍の将となり、趙朔が下軍の将となった。晋軍と楚軍が激突した。が、晋軍は敗れ(邲の戦)、覇権は楚に移った。司寇(警察長官)の屠岸賈(とがんか)が夷皐(霊公)を誅したと説いて回っていた。これを知った韓蕨(かんけつ)は趙朔に亡命を勧めたが、屠岸賈が討つままにして、趙朔は殺された。逃げ出した孟姫は趙朔の子を宿していた。杵臼は生まれた嬰児を抱えて山中へと奔った。程嬰は韓蕨を訪ね、遺児が山中で生きていることを告げた。程嬰は裏切って屠岸賈に遺児の居場所を教えた。屠岸賈は遺児と杵臼を殺害した。ところがこれは杵臼が命を掛けた程嬰との共演だった。程嬰は本当の遺児を韓蕨に託した。遺児の名は「武」という。15歳になった趙武は復活した。20歳になると程嬰は趙武に、本望を果たした、杵臼のもとに報告に行くと述べて自殺した。趙武は28年後、晋の宰相となった。

 

老桃残記

趙武が宰相となり、封土は肥大した。趙鞅(おう)は趙家の主、家宰は董安于(とうあんう)である。趙鞅の祖父趙武は楚との和平を成し遂げた。趙鞅は温邑に静養に出かけた。周の国では周王が崩御し後継問題が起き、争乱が起き戦火は広がった(王子朝の乱)。趙家と韓家は交誼が篤い。王子朝の乱を鎮め、趙鞅の帰国後、執政の韓起が亡くなった。魏舒が宰相の座を継いだ。趙鞅は晋の名門の中行家(中行寅)と不和になった。この頃、趙家に転がり込んできた陽虎は大悪人等と悪口雑言を浴びせられたが、趙鞅には従順であり続け、趙鞅の危機を救った。趙鞅は董安于の進言に従った。趙鞅は嗣子無恤(ぶじゅつ)に晋陽が最後の頼りだと教えた。

 

隼の城

無恤の母は趙家の下女である。趙鞅は人相見の好布子卿を晋陽に招いて無恤を見てもらった。子卿は将軍なり、天寿の子なりと言った。趙鞅は天地人が無恤を祝うなら、長子の伯魯を廃嫡するつもりでいた。趙鞅は、男子を山に集め、隠しておいた宝の符を探すよう命じた。見つけたのは無恤だった。無恤が嫡子となった。無恤は父の遺志に従って、夏屋山に上って征服したい国を見た。無恤は代君と会い、代君を殺し、代を攻めた。無恤は自らの子でなく伯魯の恩に報いるため伯魯の孫を跡継ぎにした。晋の大臣に知瑤がいた。晋の元帥として晋君を追い出し、晋君が斉へ亡命した後、知瑤が晋国の僭主となった。知瑤は趙家を叩きつぶそうと考え、無恤は晋陽に逃げ込んだ。晋陽を囲んだ知瑤は水攻めを行ったが、無恤は張孟談を囲んでいる韓と魏の二卿に遣わせた。張孟談は二卿の前で「唇が亡びると、歯が寒いという諺があります」と切り出した。二卿を殺せと知果は知瑤に進言したが、相手にせずにいると、二卿は無恤と組んで知瑤を破った。知瑤の敗死により春秋時代が終わったという史家は多い。