新三河物語 下 宮城谷昌光

2008年10月20日発行

 

大久保忠世は諏訪家をおさえるために、諏訪頼忠や千野昌房に対し、徳川を恃めと説き、2人は従ったが、これを酒井忠次が自らに従えと言い出し、酒井に攻撃された高島城の頼忠は北条氏直に援軍を要請した。徳川の兵は退去することになり、忠次と忠世は退却の順序でもめた。真田昌幸は、北条、上杉ではなく家康に服属した。氏直は家康と和睦した。忠世は小室城の攻略にとりかかった。大道寺政繁は忠世の開城勧告を受け容れた。海津城の守将の一人・屋代秀正の離叛は上杉景勝に衝撃を与えた(北の天地)。

 平助の兄忠為と忠長が二俣城を預かっている。真田昌幸は猜疑心が強く家康を信じることが出来なかった。家康の上田城攻めの進軍に忠世と忠佐が加わった。軍議で揉めた家康軍は真田の術中にまんまと嵌り、逃げまどい、多くが討死した。真田の兵は41人の戦死者だったのに対し、討ち死にした徳川の兵は1360余人だった。崩口の高名は平助に与えられて然るべきだったが、平助は他人に高名を譲っていく。忠世は味方を助けるべく一騎で引き返した(神川合戦)。

 真田の支城の丸子城を攻めようとして忠世が策を献じようとしたが、鳥居元忠平岩親吉も動かない。家康が観ているところでは必死に戦い、目の届かないところでは惰傲である。忠佐に言わせれば、“真田は戦は巧いが、信義がない。道幹(広忠)さまは偉かった。今川を裏切らなかった。その信義が三河の武士の心に植えられて育ち、松平家三河も滅ばなかった。道幹さまが織田の利に釣られていれば、今の我等はない”。忠世や平助の母が父と共に秀吉の軍勢と戦うために岡崎城に入った。石川数正が岡崎から出奔した。吉田城の酒井をはじめ、浜松から家康も岡崎城に入った。忠世は小諸にとどまったが家康の指示書では早く帰れとあった。忠世は平助にここで死んでくれと言って平助のみ小諸に残した。突如秀吉と和睦となった(小諸の城)。

 平助が小諸から引き揚げた。独りで小諸城を護り抜いた平助をねぎらうためだった。兄の忠為から褒められて平助は涙が溢れた。家康は北条氏政と氏直父子に会うことにした。信玄と謙信が長い戦いを始めた故に信長が大国の主になった教訓を生かして、家康は余計な戦いを避けた。天下統一の後に上に就くことと下に立つことを諮ればよい。いま位の上下を争うのは無用である。秀吉に押し付けられた旭姫との婚儀を結んだ家康は秀吉と姻戚となる。和睦のため家康は上洛した。人質のため大政所が岡崎に入った。その時の本多重次の大政所への扱いを秀吉は怨みに思い、後日家康に重次を追放させた。家康は無事岡崎に戻った。上洛を拒み続けた北条氏政に対し、秀吉は最後通牒を送った(小田原へ)。

 秀吉は小田原に軍を向けた。氏直は降伏を告げた。氏直は高野山に追放され、氏政と氏照の首が京へ送られ聚楽第の橋に晒された。忠世は小田原四万五千石を貰い、戦地に荒れた小田原を復興した。平助は二千石を授かった。忠佐は茂原から沼津へ移り二万石を領治した(天地の声)。

 沼津に呼ばれた平助は、忠佐から二万石を譲られるのを断った。平助(彦左衛門)は子孫への訓示を書いたに過ぎぬと言って加筆修正を続けた。家光は徹夜して『三河物語』を貪るように読んだ(筆と墨)。