2017年6月10日発行
元親の返事を聞いた信長は、早速、元親に阿波を追い出された三好笑厳を四国討伐の先鋒役に命じた。総大将には光秀が選ばれず、司令官に丹羽長秀が選ばれた衝撃は大きかった。光秀は病んでいった。他方、元親は紀州和歌山の雑賀孫市を金で抱き込むのに成功したが、備前備中は秀吉に見方していたために交渉は失敗した。毛利は北伊予・南伊予を応援しているので、毛利に同盟を持ち掛ければその地域を元に戻せと言われるために毛利を頼ることもできなかった。元親は土佐一国に志願兵を募った。秀吉は毛利を攻めるために信長に援軍を求めた。最後の仕上げを信長にやらせることで信長が秀吉を恐れることがないようにするためだった。信長はそのために光秀を向かわせた。信長は5月29日夕刻、日蓮宗大本山本能寺に入った。丹波亀山にいた光秀にとり真空状態にある京は甘美であった。錯乱同然の中で光秀は独りで決意した。6月1日夜、亀山から軍を発した光秀は老ノ坂から突然南下し明け方に本能寺に討ち入った。変報が元親に入ったのは8日後だった。元親の19歳になった嫡男弥三郎はこの時に一気に三好笑厳を討ち取るべきだというが、元親は嫡男に対し、敵だけを見て味方を見ていない、味方は疲弊している、今は休ませる時だという。光秀は変の11日後には秀吉に討たれた。官兵衛は秀吉の姉の子秀次を名族の三好笑厳の養子とすることを思い付き、笑厳も元親退治のためにそれに応じた。阿波への攻勢の準備ができた元親は2万3千の軍勢で阿波に討ち入った。三好は十河存保を代表に立て迎え撃った。勝瑞城を取り囲んだ元親だったが、洪水のために一度引いたが、再び城を攻めて落とした。この間に秀吉は柴田勝家を討ち、反秀吉の家康から同盟を求められて快諾するものの元親は動くことはなかった。家康と和睦すると秀吉は元親を屈服させようとして8万の大軍を送り込む。元親は玉砕する道を選ぶが、家臣に説得されて秀吉の軍門に降り、土佐を除いて召し上げられた。秀吉に直接2度触れたことで度量の違いを知った元親は秀吉には叶わぬと知り、元親の野望は潰え、随順すると決めた以上は徹底して仕えることに腹を決めた。