長城のかげ《上》 宮城谷昌光

2010年11月20日発行

 

逃げる

季布は四面から楚の歌が湧き上がってくるのはなぜであろうと不思議に思った。黥布だけでなく、周殷までもが裏切った。季布は項羽が生きつづければ必ず天下を平定し、帝位にのぼれると信じていた。その項羽が突然李布に逃げると伝えた。季布は“王は間違っておられる”と明言したが、項羽はこれ以上兵を殺したくない、天まで逃げる、わしに従えと言った。李布は模糊とした気持ちで南下するうちに項羽は討ち取られた。劉邦は季布の首に千金の懸賞をつけた。季布は逃亡の最中に出会った老人を神だと信じようとした。季布は周氏を頼るつもりでいた。周氏は朱家に季布を送りこんだ。朱家は季布であると察した。朱家は夏侯嬰に相談した。夏侯嬰が劉邦に進言した後、劉邦は季布と引見した。季布は劉邦から逃げようがないと実感し、河東郡の太守となり、その名声はますます高くなり、百の黄金を得ることは、李布の一諾を得るにおよばないとまでいわれるようになった。

 

長城のかげ

盧綰(ろわん)は常に劉邦の陰にいた。出身はともに沛で互いに幼馴染だった。ある時、劉邦は王になりたいと言い、盧綰はあきれた。始皇帝を盗み見た劉邦は、男として生まれたなら、ああなるべきよとため息まじりに言った。始皇帝が崩ずると、中国全土は叛乱の嵐におそわれ、劉邦と盧綰は疾風の中を走り続けた。盧綰は劉邦のかげのごとく寄り添い、劉邦はあれこれ指示した。劉邦項羽に憎まれ、無残なほど負け続け、盧綰も劉邦と遁走した。ところが奇妙なことに常勝の項羽に人気は寄らず、敗亡を繰り返していた劉邦に輿望が集まった。盧綰が気がついてみると、劉邦は王になっており、漢中に国を樹て漢王と呼ばれていた。そして、項羽が死ぬと、劉邦は皇帝の位にのぼった。臨江王が叛逆し、劉邦は盧綰に討伐を命じた。盧綰は燕王となった。項羽の将であった利機が反逆に走り、燕の隣国代を任されていた陳豨が反逆した。盧綰のもとに彭越の屍体の一部が送られてきた。劉邦は各地の王候を威喝して、裏切ればこうなるという見せしめだった。黥布も叛逆を決意し劉邦に討たれた。盧綰の謀叛が劉邦に告げられた時、劉邦は笑ったが、笑いが暗くなった。劉邦が2人を燕に遣ったが、蘆綰に面会できなかった。蘆綰の謀叛が確実になると、劉邦は燕を攻撃した。劉邦が重病と聞き、蘆綰は平癒を祈った。劉邦は亡くなり、蘆綰は長城を越え匈奴の地へ走り去った。

 

石径の果て

戦国時代の思想家の思想を記した書物は秦の時代に役に立たぬものとして焚きすてられた。陸賈は何とか経学を後世に伝えたいと思い、写字を行った。秦王朝は法家の考えに基づいて形成され、官途に就いて昇進してゆくためには儒学を棄てて法家に転じなければならなかった。盧綰と呼ばれる男が一味にいた盗賊の首領が無鉄砲な陸賈の命を奪わずに見逃した。六県に帰り着いた陸賈が朱建にこのことを話すと、朱建の知人の黥布も盗を行っており、その者もやむを得ず盗賊になったに違いないという。陸賈は黥布に多少の興味を抱いた。始皇帝が亡くなった。二世皇帝が即位した。陳勝が叛逆をおこした。叛乱は巨大な怪物に化そうとしていた。陸賈は朱建とともに黥布のいる鄱陽に向かった。そこには県令の呉芮(ごぜい)がいた。少しして朱建は黥布の副将であることがわかった。黥布は陸賈を戦いの役に立たぬ儒者と見、それを黥布に感じ取った陸賈はこの男には仕えぬと決めた。陸賈は以前に出会った盗賊と再会した。劉邦と盧綰だった。劉邦は陸賈に自分の下に来ないかと誘った。陸賈は一度も感じたことのない暖かさを感じて食客となった。陸賈は外交で劉邦を助けた。儒学嫌いの劉邦が陸賈に「わしは馬上で天下を取ったのだ。『詩経』や『書経』にまかっておれるか」というと、陸賈は「馬上で天下をお取りになっても、馬上で天下をお治めになられましょうか」と敢然といった。この一言が陸賈の名を永遠にした。陸賈は『新語』をあらわした。全部で12篇である。陸賈は劉邦の命を受け、南越国の武王趙佗を説得しに行った。趙佗は劉邦に臣従し、陸賈は太中大夫に任命された。朱建が陸賈を訪ねてきた。朱建は黥布と別れていた。劉邦の死後、劉邦の正夫人呂太后は恐怖政治を行い、他の夫人に産ませた子を次々に抹殺した。陸賈は右丞相の陳平を訪ね、陳平と軍政の長官が手を握り、呂氏に対抗すればよいと助言し、呂太后が亡くなると一気に呂を族滅した。全ては劉邦に出会った石径から始まったことだった。