長城のかげ《下》 宮城谷昌光

2010年11月20日発行

 

風の消長

劉肥は、後年、父の劉邦が竹の皮の冠を頭につけ、微風にむかって手をひろげ、「どうだ、皇帝のようだろう」と豊かな声を放った情景を繰り返し憶い出した。劉肥の目には、実際、父が皇帝のように美しくみえた。父が泗水亭の長になった2年目の事だった。亭とは今でいう警察の派出所のようなものであり宿泊設備を持っていた。劉邦は若い頃、信陵君と楽毅を尊敬していた。いずれも義侠心に富む人物だった。ある時、劉邦が夏侯嬰と争って血の付いた衣服で帰ってきた。数日後劉季が夏侯嬰を刺すところを見たという告発者が現れて役人に連行された。法廷で劉邦は刺した覚えはないといい、夏侯嬰は劉邦に刺されたおぼえはない、という。夏侯嬰が劉邦に恫されていると感じた法官は、喋ったら殺すと恫されたかもしれぬが、そうはさせぬので、安心して話すがよいと語りかけたが、夏侯嬰は表情も口調もかえず、怪我は他のところでした、劉邦とかかわりがないといった。目撃者がいることについても、事件を捏造したと言い、目撃者も“暗かったので、見誤ったかもしれない”といい出し、2人は解放された。だが再審が行われ、再び2人は法廷に立たされた。夏侯嬰は獄に投げ込まれ1年余の獄中生活を送り、鞭で打たれ続けた。しかし夏侯嬰は証言を翻さなかった。

夏侯嬰を吐かせるために獄に入れられたが、夏侯嬰は証言をひるがえさなかった。劉邦が呂氏の娘娥姁と結婚すると曹氏の家に来る回数が減った。それでも劉邦を受け入れた母を劉肥は自分をあざむいていると思った。劉肥は父からも母からも騙されている、孤児になったと思った。そしてこれが生きているということだと思った。ある日、曹参が訪ねてきて、劉邦が逃げたので、劉肥と曹氏に身を隠し、駟鈞(しきん)を頼りなさいと助言し、母子はこれに従った。始皇帝は亡くなったが、二世皇帝はそれを隠し、人民に酷虐の限りを尽くした。陳勝呉広が叛乱の兵を挙げた。歴史は皮肉な様相を見せた。項羽がただ一度の敗戦によって死に、勝っても必ず勝つとは限らない劉邦が天下を制した。劉邦は皇帝になり、劉肥は王になった。斉王として立てられた。中央からは斉王の劉肥が名君なのか暗君なのか看破しにくかった。わかっているのは、斉がよく治められていることで、それも曹参がいるからだとみなされた。劉邦崩御すると、呂娥姁の専横が始まり、呂太后は劉肥を毒殺しようとした。虚妄のない呂太后は純粋で正直であるが残酷さを持つ。虚妄をもつ母は本来の自己を失っているが、果たしてどちらの女の生き方が良いのか悪いのか。劉肥は自分の生き方さえ分からなくなった。その時、太后を喜ばせればよいとの妙案が献じられ、その通り実行すると劉肥は帰国を許された。

 

満天の星

叔孫通は、山東の薛県では名の知られた儒者だった。焚書の被害を免れるために弟子たちに書物を暗記させた。始皇帝の聴政の感覚が異常になり始め、始皇帝が亡くなると、始皇帝の末子である胡亥が次の皇帝として即位した。叔孫通にとって希望の星だった扶蘇が亡くなり、陳勝呉広が叛乱を起こすと、叔孫通は弟子たちと函谷関を抜けた。中国ではじめに成文法をつくったのは鄭の子産という宰相であり、そのとき晋の賢臣である叔向(しゅくきょう)が子産に「国亡びんとすれば、法を定むること多し」と、法の弊害を説き、子産を諫めた。法が人の心の中にあるうちは争いも少ないが、はっきり目に見える形で定着すれば、人は人を見ずに法を見て、法にかからぬように心がけ、或いは法を争いの的にする。そこには人を立てるべき仁義礼信のような理念がなくなり、人が立たねば国家も立ちゆかなくなる。叔向はそう警告した。叔孫通は、始皇帝、二世皇帝、項梁、義帝、項羽と主権者が変わってもつねに天下の主権の近くにいたが、義帝を殺した項羽に仕えたくなく、義を履む劉邦に従うことを明言して西へ歩き続けて再会を喜んだ。劉邦が皇帝になると、秦の礼儀や法令を撤廃し、宮中における規則がなきにひとしくなり、劉邦の悩みの声を聞いた叔孫通は千載一遇の好機を見出し、儒学を活用し、その有益を天下に知らしめるには、この時を措いてほかにないと意を決して劉邦を説いた。儒学嫌いの劉邦は、わかりやすい礼にせよと命じ、儀式での礼法を説く儒学の有益性に理解を示し、叔孫通の弟子を一人残らず政務官に任じた。司馬遷は叔孫通について「道は固より委蛇たり」といった。委蛇とは屈曲しているということである。