平成19年4月1日発行
裏表紙「猛将白起率いる秦軍は、領土を拡大するも宣太后らの私有地が増えるばかりであった。范雎は秦の昭襄王への謁見が叶い、天下の秘策「遠交近攻」を献じ、信任を得る。宰相となった范雎は、政争の芽を的確に摘み、韓・魏・趙など隣国を次々に落とし、巨大帝国の礎を築いていく。始皇帝出現前夜、戦国期に終焉をもたらした天才宰相を雄渾壮大に描く傑作歴史長編。」
須賈は魏冄に、わずかな土地を魏に割かせて事を収めることが引いては大利を得ると説き、黄河北岸の要衝の地・温を割譲することで講和が整った。范雎は原声と再会し、魏斉を倒すまで待って欲しい、鶚は鵬になると信じてほしいといった。魏はまたもや秦軍の侵攻を受け四城が魏冄に落とされた。范雎は隹研に会うため劉延の家に立ち寄り、隹瑤から臾に任せている家なら身を潜められると聞き、臾のいる啓封に弟子となった隹研と向かった。秦軍は本国を発ち、魏冄は将の白起と胡陽を引き連れ、魏と趙の軍を撃破し、大梁は秦軍に包囲され、魏はまた領土を割くことになった。隹研は臾の家の主人に当たるが、身の回りは絳がしてくれた。臾は范雎が絳に手を付けると誤解していたが、やがて誤解も解け、文武に達識のある范雎を心酔し始めて、2人目の弟子となり、絳を妻に迎えた。隹研と臾は范雎のために寡婦の穂を選んだ。秦の王宮で昭襄王は稽首した王稽に魏を探らせた。王稽こそ范雎にとり雲上にとどく梯子をかけてくれる人であった。秦はそれまで魏冄一人だったのが、昭襄王が動き始めて変わりつつあった。鄭安平は王稽に范雎と会うことを勧めた。王稽は、昭襄王の未来を考えると、古代の名宰相に比肩しうる大賢を輔佐にすえおきたい、昭襄王は樊の中の鳥であることを嫌って広々とした天を翔びたがっている、昭襄王はこれから魏冄の息のかかっていない臣を集めるべきである、自分が昭襄王の足下に集合する臣のひとりと自負する王稽は、自分を助ける者か、王を守る者を多く見つけたいと思い始めた時に、范雎と出会う。范雎は隹研を連れて王稽とともに秦へ向かった。しかし単なる説客と思われた范雎は一年余も昭襄王から顧返されなかった。意を決して范雎は書を奉呈した。范雎の書は、秦における権力の趨勢を変え、天下の形成をも変わるきっかけをつくったため、戦国策にも史記にも採られ、特に史記は長々と引用した。昭襄王は范雎と会うことにした。范雎が昭襄王に語ったのは、昭襄王が太后や魏冄をそしり二人の権威を失墜させる讒言かと一瞬思う程凄まじいものであった。しかし昭襄王は自分のことを思っての箴言であると思った。范雎は占領し続けられない地をいくら広く獲得しても意味がないというクラウゼビッツの『戦争論』にも現れる思想を説き、「遠交近攻」(王は遠く交わりて近くを攻めるに如かず)を主張した。昭襄王は目から鱗が落ちた。昭襄王は胡陽に軍を率いさせて趙を攻めた。戦国時代の有名な「閼与(あつよ)の役」が始まった。しかし范雎は昭襄王が自分の献言を理解していないと思った。閼与を落としても保持し続けるのは難しかったからである。范雎は閼与からの撤退を進言したが、聞きいられず、秦は大敗北した。この失敗で昭襄王は范雎を一層信頼した。着実に領地を広げていく戦略の大要は、秦は斉、楚と結び、三晋(韓・魏・趙)を滅ぼすというものである。范雎は要衝の邢丘を取るためにその北にある懐への攻略を進言した。将軍には魏冄の息のかかっていない最下級の綰を当てて成功させこれで邢丘も獲得した。これまでの秦は系統づけた戦略がなく、ゆえに百邑を陥落させても保持できなかった。范雎は昭襄王の覇業を考え、秦による中国統一は、范雎の頭脳という出現によって端緒についた。魏冄は斉を敵視し続けたが、范雎は秦は斉と結ぶべきであると考えていた。魏で人質生活を送っていた太子外が亡くなり、次の太子の公子柱の正室は華陽夫人といった。面謁すると、華陽夫人は南芷だった。翌年、秦は邢丘を落とした。次に滎陽を取れば魏は分断され、魏、韓、趙の軍事的連携は困難になる。昭襄王は遂に意を決して、母、叔父、弟という五貴人を廃し、范雎を宰相とした。これにより王の威権は固まり、覇者へ近づいた。魏の魏斉と須賈は、秦の宰相に張祿という王侯がなったと聞き、須賈が探りに来ることになった。12年の間、待ち続けた仇人がくる。いよいよ復讐の時である。范雎は隹研に、原声、夏鈴、夏風、龍首、劉延、隹瑤、甘安、先恵、甘哥などの名と住所を書き留めさせ、これらの人は窮迫の范雎に温かい手を差し伸べてくれた人であるゆえに篤く酬い、鄭安平には特に篤く酬いるべきであるため連れてきてほしいとお願いした。また厠室から出してくれた何介に最初に会い、一生安楽にすごせる謝礼を与えるよう頼んだ(去りゆく人、さまざまな花、天へつづく路、一安の時、秦への道、遠交近攻、閼与の戦い、華陽夫人、復讎の時)。