青雲はるかに《下》(その2) 宮城谷昌光

平成19年4月1日発行

 

須賈は范雎が秦の宰相と知って驚愕した。范雎に会えなければ、昭襄王にも会えず、生きて秦国を出られない。范雎は須賈を釈して魏へ返したが、魏斉の首を持って来なかったら、大梁を全滅させると脅した。魏斉には如何なる容赦もしなかった。何介、甘安、龍首、夏風と次々に言いつけどおり隹研は礼を施した。魏斉宅から原声と夏鈴を連れ出すために夏風に助力を求めたが、魏斉は2人を盾に趙の平原君に逃げた。原声と夏鈴を見失った隹研は放心状態で咸陽に戻った。が、原声と夏鈴は生きていた。二人を逃したのは平原君の客の弗亀(ふっき)だった。范雎は隹研の失敗から虞卿という容易ならぬ敵の存在を教えられた。秦にとって最大の敵は趙となった。范雎は欲の顔を露わにした王稽であってもかつての恩に報い、また友の鄭安平を招聘した。范雎は鄭安平と手をにぎりあった。魏冄は太子を擁立することで挽回を狙うだろうと予想した范雎は、先んじて公子柱を太子につけることに成功した。後の孝文王であり、始皇帝の祖父にあたる。魏冄は完全に消えた。昭襄王から招かれた平原君が函谷関を通って咸陽に入った。昭襄王は平原君に魏斉を寄越せと脅した。韓の上党を孤立すれば、援助するのは魏と周だったが、上党への道は懐と邢丘を抑えたことで既に遮断していた。范雎は昭襄王の赦しを得て平原君を帰国させた。趙が危うくなれば平原君から秦王に面会に来ると予想されたからだった。韓を攻めるのに人がいないと嘆いた范雎は、魏冄に仕えていた猛獣の如き白起を起用し、戦果を挙げた。韓は上党を秦に割譲するつもりになったが、上党は趙へ身売りした。これがために戦国期で最大の死者をだす長平の戦いへとつながった。長平の戦いは3年にわたって国運を賭して秦軍と趙軍が戦った大会戦である。中国戦史上でも特記される決戦。その底辺には魏斉に復讎しようとする范雎と、魏斉を庇い抜こうとする平原君や虞卿との対立があった。史記は「斬首、虜、45万人」と記した。趙は一両日で働き盛りの男全てを失った。捕虜40万人が生き埋めにされた。魏斉は自頸した。范雎は魏斉の首を前にし、一賤臣が一国の宰相に復讐をやり遂げた姿がここにある。これほど完全な復讎はない。范雎は白起の亡挙が信じられなかった。原声との生活が10年経過した。がある時病に伏して死んでしまう。自ら秦の宰相になると吹聴した祭沢が范雎に代わり宰相となった。吟尼が范雎を訪ねてきた。范雎は、雲の上まで近道を通ろうとしたが、ずいぶん遠い道になった、近道を教えて貰いたい、遠回りをしていては原声が魏斉に奪われてしまう、と語った。