昭和62年3月13日1版1刷
①幸福な人生
②父、貞辰
③末っ子
④小学校時代
⑤中学時代
⑥高校時代
⑦九州大学
⑧三菱電機入社
⑨結婚
⑩太平洋戦争
⑪原爆
⑫敗戦
⑬設計課長就任
⑭日独へ初出張
⑮欧州から米国へ
⑯長崎製作所長
⑰東京本社転任
⑱WH社視察団
⑲独禁法提訴
⑳社長に
㉑販売店回り
㉒危機突破運動
㉓カラーテレビ立て直し
㉔大森淳夫訓
㉕三菱電機変身
㉖電算機部門
㉗半導体部門
㉘宇宙開発
㉙地下鉄関連輸出
㉚社長から会長へ
㉛三菱生活50年
・明治43年3月4日広島県生まれ。父は海軍少将にまで昇進した。長崎師範付属小学校、高知県立師範付属小学校、私立土佐中学校、高知高等学校、九州大学に進む。荒川文六教授から電気工学を学ぶためだった。三菱電機に就職し、神戸製作所で1年実習。長崎製作所に配属され、8月9日はいつもと予定が違ったために命拾いした。終戦後設計課長に就任。26年に三菱電機はWHとの技術提携を復活。35年に長崎製作所の七代目の所長となる。技術部長、初代事業部長、取締役兼重電事業部長をつとめ、常務兼技術本部長・研究本部長事務取扱を命じられた。45年に米司法省による独禁法提訴問題が起き、例年開いたWH社とのトップ会談を中止した。11年かかった裁判は56年に勝訴した。45年に第五代社長に就任。私が社長に就任した時、三菱が家電から撤退するとの噂が流れたが、反対に家電に力を入れクリーンヒーターをヒットさせた。半導体の開発を早く手掛けたので40年代前半までは国産メーカートップを走ったが、45年頃から米国メーカーが販売攻勢をかけてきたことから自動化機械を開発し競争力をつけ貿易摩擦を引き起こした。人工衛星組立工場を鎌倉に完成させた。55年に片山仁八郎君に社長の座を譲り会長に就任。今や売上高2兆円に迫る企業となった。