昭和56年4月21日発行
・明治30年6月6日宮城県生まれ。父は全国でも指折りの大土木会社に成長させ、50歳で会社を解散させ、資産を自分、幹部社員、一般社員に三等分した。その後、父は仙台市長を無給で1期務めた。渋沢栄一とも親しかった。父は実に質素な暮らしぶりだったが、私は道楽者だった。慶応大学時代に財産分けに預かり30万から35万貰った。今なら何億円という額だった。お茶屋遊びから山登りに関心が移り、10年で大学を卒業した。卒業後自らペンキ屋を開業。父から貰った財産はほぼ使い果たしていたので始めた仕事だったが、丸の内のビルの需要を随分獲得することで業績は順調に伸びた。東京鉄建の子会社大東工業が一番のお得意さんになったが巨額の焦げ付きが出来、大東工業に乗り込み東京鉄建の社長に会ったことで企業再建人生が始まった。東京鉄建が窮地に追い込まれた原因が三菱造船にあるのを知り三菱と掛け合ったことで縁が出来た。日本鉄建が三菱の会社となり再建を軌道に乗せた。敗戦後軍需がなくなった鉄建だったが、労使協定を結んだ直後、私は49歳でGHQに追放された。追放解除された私は会社更生法を使って再建に乗り出し、その頃からいろんな企業の再建依頼が持ち込まれるようになった。朝比奈鉄工所、有楽フードセンター、油谷鉱業、睦屋の再建を手掛けた。日本特殊鋼倒産後に再建を手掛けると共に旧経営陣への損害賠償請求権の査定申立を行った。日特鋼の更生終結時に70歳を過ぎ引退を考えていたところに、佐藤造機の管財人就任要請を受け、三菱重工と合併し、更生計画の認可を受けて再建は順調に進んだ。東京管財人懇談会が昭和45年に発足し代表幹事に推された。興人が昭和50年に史上最大の負債を抱え倒産した。78歳を過ぎており管財人を断り続けたが、東京地裁の裁判長から催促されて受けざるを得なくなった。仕事の引継は受けない主義なので、管理職から倒産の原因を一言で全員に書いて貰った。組織の簡素化に努め、部長を63人から33人に、課長は121人から84人へと減少させ、人員整理を進めた。更生計画案が認可され新経営陣に経営を委ねた。