昭和56年1月13日1版1刷 昭和58年11月18日1版7刷
①故郷は吉野の里―学業優秀、テニスも
②一高入学―多い秀才にびっくり
③肺結核―療養中も勉強続ける
④三菱入社―査業部でのびのびと仕事
⑥三菱信託へ―不動産部の副長で
⑦戦争・終戦―「敵国」の財産を管理
⑧苦難の時代―栗田氏のあと継ぎ社長に
⑨銀行兼営へ―GHQと談判進める
⑩貸付信託への道―「協会案」法制化
⑪健保組合の設立―翌月、会長へ
⑫全員で作った固い芯―若人の力を信じ
・明治26年2月2日奈良県吉野生まれ。一高に入学し東寮に入る。同室の倉田百三君の投稿文が問題になる。もう一人の変わり者は菊池寛君だった。硬派と軟派が確執していた時期だった。東京帝大法学部法律学科英語科に進む。卒業後は三菱に入社し査業部に配属される。査業部の仕事は海外の投資先を探すのが中心だった。昭和8年に三菱信託に移る。不動産部の副長だった。当時は建物、土地は売れないものだった。11年に部長となり、土地分譲の業務が増えた。戦後常務取締役となり、公職追放令の範囲が拡大され栗田社長辞任後、社長の座に就く。信託会社が苦境を乗り切るには銀行業務兼営しかなかったが当時は禁止されていた。アメリカの信託は大半銀行業務を兼営しており、GHQとひざ詰め談判をすすめ、認可が下りた時は喜んだ。設備信託受益証券案を持ってきた業務部副長のアイデアが後の貸付信託法制定の土台になった。財閥商号使用禁止等に関する政令廃止に伴い、三菱信託銀行株式会社と名乗る。貸付信託の大衆化の推進、コンピューター利用による事務合理化体制の整備、健康保険組合の独立を目指した。33年に業界首位の地位につき、翌年会長に。現在総資産は2兆5千億円を超え社員も5千60人となり、入社時の50倍に。年金信託業務も軌道に乗り始めた。今後とも伝統を尊び新しい業務拡充のための芯を作りつつ先に進めねばならない。(昭和49年7月17日死去)