2019年6月30日第1刷
裏表紙「2018年発行の文芸誌に発表された200余の歴史・時代小説の短編から、これぞ傑作の太鼓判を押す11編を収録。大食い競いの顛末から徳川初期の時代性を映し出す吉川永青『一生の食』に始まり、幕末の世を舞台に武家の妻女の切ない恋を描く諸田玲子『太鼓橋雪景色』まで、一気に読ませる。名手たちが濃やかにつづる、情や志が胸を打つ、年度版アンソロジー。コレクションとしても最適なオリジナル文庫。」
目次
一生の食 吉川永青
扇の要 佐藤巖太郎
夫婦千両 中島要
黄泉路の村 矢野隆
沃沮(よくそ)の谷 荒山徹
大忠の男 伊東潤
海神の子 川越宗一
太鼓橋雪景色 諸田玲子
一生の食
家光は4年続いた寛永の大飢饉を乗り越え「八朔の日」に気晴らしの余興に大食い見物を支度させようとした。名乗りを挙げたのは健啖の士として世に知られた庄田小左衛門と対抗馬の一映という僧。堅物だが息抜きの大事さに大目付井上清兵衛が理解を示すと、八百比丘尼が現れて反対し、一映は命を落とすと警告した。当日余りの量を勢いよく食べ過ぎた一映は胃が破裂して死んでしまい、事件はなかった事にされる。しばらくして家光は、井上が己を諫めるために八百比丘尼を用意し、死んだふりをさせるつもりが事故で本当に死んでしまったのではないかと推察し、井上に確認する。井上は正直にその事を認め、愚かな事をしたと悔いた。祖心尼は家光も井上も愚かだと言い、家光は自らを戒めようと決意する。以来、家光は倹約の姿勢を強め、世のあり方を正すため百姓の暮らしを安定させ、各藩の藩政もそれに伴い変容させた。
直心影流剣術坂谷指南場の娘芙希は、二刀流の剣士佐賀藩士原数馬と立ち合いに臨む。数馬は戦わずに済むために人は武の修練を積まねばならぬと言っていた。数馬に思いを寄せていた芙希は数馬が江戸を発ち佐賀に戻る姿を見送った。22年の時が経過した。数馬が佐賀の反乱軍の小隊長を務め、戦死したか入牢したか分からないが、この世にいないと考えると、芙希は凄まじい寂寥に囚われた。
津軽の信長
初代津軽藩主となる大浦為信(後の津軽為信)は、足利将軍を操る信長の行動力を知り、我こそ津軽の信長になると決意し、南部高信がいる大仏ケ鼻城の改修を申し出、宴席を3日3晩続けて高信を油断させ、遂に高信を津軽から追い出して、津軽統一の第一歩を踏み出した。
安寿と厨子王ファーストツアー
沼に身を投げた安寿は2日後に岸辺で見つかる。再び山椒大夫の元へ戻ると、山椒大夫は何より金を重んじる人なので、高い金を出した元を取り戻すために安寿を使って金儲けを考える。ある日、母と厨子王を思って歌う安寿の声を聞き、歌で人集めを思いつく。これを「商」(ショー)と名づけ、小屋で安寿に歌わせる。熱心な客が金を落とし安寿を扶けたいと考えたので、扶安(ファン)と呼ばれた。安寿の歌声は評判を呼び、新しい割り符を作り、契渡(ちぎりと、音が詰まってチケット)を売りさばいた。初めの頃、安寿の歌は楽土の夢を破る御仏の教えを説くものが多く、破楽土(バラード)と呼ばれ、法を布くと評されると、法布(ホップ)と呼ばれた。そして自らの歌を模索し、詩も悟も超えるものを六(ロック)と名付けた。天を衝き地を揺るがす安寿の歌は雷舞(ライブ)と呼ばれた。京で歌うため金主が道のない京の東の土地に建物を建てた。京東道無(ドーム)雷舞が行われた。道舞の扶安の中から厨子王が現れた。山椒大夫は、2人が今から伴道(バンド)となり、最初の旅に出る、次の雷舞は(母のいる)佐渡じゃ、仕度は山椒大夫が請け負った、と叫んだ。
*作品の中では、上記カタカナはすべてひらがな標記になっているが、カタカナにした方が読みやすいので、カタカナに変換しました。あしからず。
扇の要 佐藤巖太郎
初代会津松平家藩となる保科正之は秀忠の弟である。もっとも異腹の弟の存在が公になれば天下大乱になると、秀忠の側近中の側近で西の丸年寄の土井大炊頭利勝は危ぶみ、正之には駿府城にいる駿河大納言忠長の動きを伝える役目を命じられる。忠長は我等徳川は扇の要のようなものと言い、純粋さを持つが、正之は忠長に危うさを感じた。忠長は秀忠の死後、身を持ち崩して28歳で自刃するが、そうならないよう正之は己の存在を消し続けた。結局秀忠は忠長にも正之にも会おうとしなかった。正之は家光が要とすれば、己は扇の骨であり、骨の分を越えてはならないことをよく知っていた。正之は徳川家に戻る道が己の進む道でないことが見えていた。
夫婦千両
落語の芝浜のように、よく出来た妻が、金に目が眩んで仕事をやめてしまおうとする夫をまともに仕事を続けさせるのにひと苦労する。最後は夫も妻の期待に応えて、きちんと仕事をすることの尊さに気づき、金の魔力に負けなかったという、いい話。宝くじで千両が当たっても、確かにそれで夫が人生を堕落させてしまえば元も子もない。それくらいなら千両をお寺に寄付してしまった妻も凄い。そして、それで目が覚めた旦那も偉い。
黄泉路の村
死んだはずの北野仁衛門という代官が、黄泉返りの村と呼ばれる村に赴き、1月ほどで死んでしまう。村のしきたりに則り、殯屋を建てて弔われたが、10日目に仁衛門は蘇り、肉親たちを斬殺して闇に消えた。理を大事にする三成はこの噂の真偽を調べようとする。勘兵衛から朝顔があるか調べろとヒントを貰い、朝顔に幻覚作用があることから、仁兵衛は死んだと見せかけたまやかしだと考えた。村では村人を村から逃がすために朝顔を使って死んだように見せかけ、殯の最中に眼を覚ました者は闇夜に紛れて村を去る。これが黄泉返りの真相だったが、勘兵衛が遣わした太兵衛がこの世とあの世を彷徨う仁兵衛の妖怪を切り刻んだ。それを見通す勘兵衛の闇のような目を見た三成は、有岡城から別人のようになって出てきた勘兵衛こそ生きているのかと太兵衛に問うた。
沃沮(よくそ)の谷
魏の名将毌丘倹(かんきゅうけん)は高句麗を陥落するが、句麗王は沃沮の地に逃げ込む。沃沮は邪神を崇める地で、倹が沃沮に足を踏み入れると、そこには巨大な蛆虫が数千の義兵を押し潰し殺した。一旦は邪神に洗脳されかけた倹だったが、墓泥棒に沃沮に潜入した子房と巨漢の蛮人と出会い、彼等が求めていた朝鮮王箕子(きし)が魔物退治のための弓矢を発見し、3人で力を合わせてこの弓を放ち、巨大な蛆虫を雲散霧散させた。倹の志は唐に引き継がれ、後に突厥(トルコ)や高句麗を滅ぼす。
大忠の男
秀頼側近の身辺警護隊七手組速水守久は古田織部から、豊臣家を守るには、京の二条城に火をつけ混乱に乗じて大御所や秀忠を一気滅しようと奇策を授けられるが、清水守久は秀頼にこの策で豊臣家を守れたとしても京や帝や朝廷に忠義を尽くす秀吉の心に叶わないとして、家康にこの奇策を洩らし、その罪で切腹したいと申し出る。秀頼は豊臣より天下への忠義を尽くそうとする清水守久の不器用で忠義専一を認め、潔く戦って誰にも恨まれず滅びの道を選択し、大阪城が落ちる時、清水守久の手で首を刎ねられて自害し、引き続き清水守久も自害する。
海神の子
綽名を持つ松は、その音が船乗りの女神・媽祖(マーツオ)に似ている。海賊の思斉は松を女としてではなく、海賊の仲間として引き入れた。平戸の田川七左衛門は思斉とも仲が良かった。懐妊した松を七左衛門は思斉から頼まれて養女にした。七左衛門の下には松より少し年上のマツがいた。松が生んだ男の子は福松と名づけられた。海賊同士の争いが起こり、松たちは姿を消した。福松はマツに育てられた。最近、海寇・鄭芝龍が頭角を現してきた。松が鄭芝龍として七左衛門の前に現れ、七左衛門は驚く。松は幼子の次郎左衛門をマツに託して育ててほしいと頼む。そして松こと大海寇、鄭芝龍は再び海に帰って行った。
太鼓橋雪景色
摂津国三田藩九鬼家の家臣倉橋瀬左衛門の妻となったひわがまだ17歳の時、ある出来事がきっかけで東北の藩士鉄次郎に恋心を抱き、両親が決めた縁談を袖にして、太鼓橋で待ち合わせの約束をする。雪が降る中、鉄次郎は待っても待っても来なかった。以来20年が過ぎた。ひわには娘の澄江がいて、澄江も嫁ぎ先が決まっていた。そんなある日雪の日、大老井伊が襲われた。夫が屋敷に急遽呼ばれた。そのことでひわも昔のある出来事を思い出した。鉄次郎が現れなかった本当の理由は大分経ってから下僕の弥助から聞いた。太鼓橋で待ち合わせの約束をした前日、鉄次郎の恩師が襲われ、鉄次郎は弥助に太鼓橋でひわを待つとの伝言を頼んだのだが、弥助はひわに告げるに告げられなかったのだった。ひわは、雪の降る日に娘の澄江と太鼓橋を見て、かつて自分にも娘の時があったと話す。すると澄江も、わたくしだって…と言う。太鼓橋は銀色に輝いていた。