平成17年9月1日発行 平成30年8月5日10刷
表紙裏「トライアヌスの後を継ぎ皇帝となったハドリアヌスは、就任直後、先帝の重臣を粛清し、市民の信頼を失っていた。しかし大胆な政策や改革を実施することにより人気を回復。そして皇帝不在でも機能する組織固めを確実にしたハドリアヌスは紀元121年、念願の帝国視察の大旅行に旅立つ。目的は帝国の安全保障体制の再構築にあった。治世の三分の二を費やした、帝国辺境の旅。それを敢行した彼の信念とは……。」
第2部 皇帝ハドリアヌス(在位、紀元117年-138年)
14代皇帝ハドリアヌスはトライアヌスと同じイベリア半島南部生まれ。ハドリアヌスが10歳の時に父が亡くなる。父は生前トライアヌスを後見人に指名し、ローマでハドリアヌスはギリシア文化全般に熱中した。ハドリアヌスは、紅章つき大隊長、会計検査官、元老院議事録の編集責任者、法務官、遠パンノニア属州総督、執政官、シリア属州総督を経て、41歳でローマ皇帝となる。即位すると、ユダヤ教徒の反乱、ブリタニアの反乱、北アフリカのマウリタニア属州の反乱、ドナウ北岸のサルマティア族の反乱を収めていく。その後、ハドリアヌスは近衛軍団長官アティアヌスに命じて、陰謀を企んだ執政官経験者4人を逮捕する。古来、この4人の殺害をアティアヌスが独断で行ったのか、ハドリアヌスの命だったのか議論がある。元老院には4人の死は自ら意図したことでないと力説し、冷え込んだ元老院との関係修復を図ろうとした。皇帝即位を祝す一時金の支給、税の滞納分の全額帳消し、社会福祉の充実など行い、彼を囲む空気を変えていき、元老院会議に可能な限り参加した。ハドリアヌスは帝国の全土視察を開始し、在位期間の大半を視察に費やす。ガリアのリヨンに始まり、現トリアーを含め、ライン河防衛線視察を始め、防衛システムの再構築に勤める。次にブリタニアに渡り、ハドリアヌスの防壁を形成する。その後、短期間ガリアに滞在した後、イベリア半島に向かう。直後にパルティア王国に不穏な動きが現れたためシリアに向かい、パルティア王と会談して、パルティア軍を解散させた。小アジアの南部と西部を巡察した後、ギリシアのアテネを目指す。半年ほどアテネに滞在し、学芸と観光の都市にして商業と観光の地方にしようとし、かつて存在した四大競技会(ピティア競技会、ヌメイア競技会、イストゥミア競技会、オリンピア競技会)を復活させた。シチリア島巡行後、一旦、首都ローマに帰還するが、すぐにアフリカに向かう。カルタゴ、ランバエシス(現アルジェリアのランベーズ)、左隣のタムガーディ等の軍団記事訪問を中心に行い、再び首都ローマに戻る。その後1年半首都と本国から動かなかったハドリアヌスはローマ法の集大成という大事業に着手する。法律とは「善と正義の技術」(ars boni et aequi)であるとは、この大事業を託された法律学者の1人ユヴェンティウス・ケルススの言葉である。ローマ法はかつてコルネリウス・スッラにより最初の試みがなされたが途中で頓挫し、次に民法まで広げた集大成に挑んだのがカエサルだったが暗殺で断絶した。それから170年が過ぎてハドリアヌスが挑戦したのは、視察目的と同様、無用なものは廃止し、必要なものは活かすという整理をし、それにより帝国の安全保障体制を再構築するためだった。軍備も法律も同じである。ケルスス以外にネラティウス・プリスクス、サルヴィウス・ユリアヌスの3人に託された法令の集大成はハドリアヌスの治世14年目を迎えた紀元131年に完成し刊行された。ちなみにこの時、公衆浴場での男女の混浴が禁じられる。女神ヴェヌスとローマ神殿の建築は第1回巡行前に発表し、アグリッパ建造のパンテオンは同じ場所に異なる様式で再建させた。パンテオンは後々まで多くの建築家に影響を与え続けた。真円を考え付いたハドリアヌスは芸術愛好家を超越し芸術家になったといえる。