宇佐美洵(前日本銀行総裁) 私の履歴書 経済人14

昭和55年12月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版7刷

 

①重なる不幸、母の死―おばが継母に

京城に移住―兄弟そろって腸チフス

③慶応大学時代―河合栄治郎にも師事

三菱銀行に入行―初任給75円也

⑤硝煙下の上海で―銀為替と取り組む

⑥ニューヨーク支店へ―ヤミ酒に酔う

⑦名古屋から新宿へ―結婚に踏み切る

第百銀行と合併―日曜返上で支店整理

朝令暮改GHQ指令―商事大合同

⑩頭取時代―「特振法」反対の先頭に

⑪西欧歴訪の旅―各国経済首脳と懇談

日銀総裁に就任―40年不況を克服

 

明治34年2月5日東京生まれ。市谷小学校2年の時に父が富山県知事となり富山の小学校に転校したが、2年後父が総督府参事官になったため再び牛込に戻る。が1年後母が亡くなり朝鮮に行く。京城中学後、名古屋の八高の入試に失敗し、合格した慶応に。父が第23代東京都知事に就任し、一家は芝公園の官舎に移る。ベンサム功利主義をミルがどう受け継ぎどう発展させたかを研究したが、東大河合栄治郎先生がベンサム研究をしていたので夏の公開口座で質問の機会を得た。慶応卒業後は三菱銀行に入社し三宮支店を手始めに上海支店、ニューヨーク支店、名古屋支店勤務の後、新宿支店の支店長代理として東京に戻る。第百銀行との合併で急に増えた支店を統轄するため本店に企画部が新設され同部業務課長となって本店に移る。戦後、三菱本社は解散の声明をするに至ったが、三菱銀行はほぼそのままの規模で残った。ただ公職追放令により多くの幹部が一斉に退陣した。三菱銀行の名前が千代田銀行に代わり、安田は富士に、住友は大阪に変わった。27年の講話条約発効で三菱に戻った。営業部長の後、29年に常務、34年に副頭取を経て、36年に頭取になった。39年暮れ、田中角栄大蔵大臣から日銀総裁を受けてもらいたいと頼まれ、引き受けたが民間銀行の仕事の経験しかなく中央銀行のことは分からないから佐々木直副総裁に実務は引き続きお願いした。総裁就任後、従来の決定すれど説明せずを改め、物事を決めた後に関係方面に納得してもらう努力をし、記者からは対話方式と名付けられた。総裁は任期満了で辞任(日銀総裁退任後、金融制度調査会会長をつとめた。昭和58年2月19日死去)