昭和55年11月4日1版1刷 昭和59年2月23日1版7刷
①実業家の先駆者祖父に学んだ進取の精神
②スポーツと文学に熱中した岡山一中時代
③反校長運動がこじれて一高を飛び出す
④社長じきじきの招きに応じて古河に入社
⑤欧米出張-生命からがら大西洋を渡る
⑥第一次大戦のさなか砲撃続くパリに滞在
⑦敗戦のドイツでシーメンスと合弁交渉
⑧戦中の混乱の中を横浜護謨の専務に就任
⑨戦後初の参議院選挙に出馬-見事当選
⑩商工相就任-山積する難問に取り組む
⑪盗難アジア親善の旅で賠償問題にも一役
⑫誠意が実を結び塩ビ技術の導入に成功
⑬故古田氏のこと、なくなった友人のこと
⑭老来とみに十九で夭折した長男を惜しむ
・岡山生まれ。豪放磊落の性格は祖父由来だった。祖父から「腹を立て、ものを苦にせぬこと」「日々ありがたきことを取り逃がすな」という2つの教えを4,5歳のころから徹底的に仕込まれた。京華中学卒業後は一高に入学したが、他人に答案を見せたことがカンニングだとされ、他人に迷惑をかけるのが嫌だったので一人退学した。慶応卒業後、古河に入社したが、官学出と私学出で給料の違いがあることに異を唱え初任給の差が撤廃された。入社3年目にニューヨーク出張を命じられ、ロンドンの後、イタリアに行くと1週間缶詰にされたがそれが奏功してイタリア語で日常生活が送れるほどになった。ドイツではシーメンスと合弁の富士電機製造を立ち上げた。時事新報の経営がピンチになった時に三菱銀行の加藤武男頭取から頼まれ営業担当常務となった。1年半で辞めて日本特殊鋼管に6年世話になった後、横浜護謨の専務として古河に戻った。戦後、参議院で初当選し、芦田民主党総裁から政調会長になるよう言われ、幹事長、総務会長をつとめた。吉田内閣で商工大臣に就任した。次の選挙では落選し政界から足を洗った。(昭和51年4月23日死去)