北沢敬二郎(大丸会長)私の履歴書 経済人9

昭和55年10月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版7刷

 

①士族の躾を身に、北沢家を嗣ぐ

②一高時代-感銘深い新渡戸先生

③外交官への初心貫き東大独政治科へ

④恩師の推薦で住友入社

⑤米国プリンストン大学に学ぶ

⑥英国留学を経て不況下に帰朝

⑦庶務課長となり不動産関係で活躍

住友倉庫再建へ次々と手を打つ

終戦財閥解体-浪人生活

公職追放中に大丸入り

⑪東京駅八重洲口に進出

⑫文化事業にも貢献する

 

・明治22年山形県米沢市生まれ。細井平洲が興した藩校興譲館の名を取った小学校、中学校に学び、外交官を目指し日本のビスマークたらんと希った。一高に入学し東寮に入った。新渡戸稲造先生が校長で様々教えられた。一例をあげると「女は太陽の光に栄え、われわれ男の力は雨と嵐に栄える」(ドイツの詩人ウーランド)。東大を卒業後、住友に入社し、総本店経理課主計係に配属された。庶務課秘書課では一字一句に細心の注意を払うよう訓練された。プリンストン大学大学院の留学中、鈴木総理事から“明暗双双底”という禅の頌を教わった。鈴木総理事よりイギリスでも勉学を重ね、帰国後、庶務課文書係主任を経て、住友合資会社になると32歳で庶務課長になった。住友電気工業の前身住友電線製造所の支配人となり、人と特許と海外会社とパテント契約を結び、古河電工を押さえ入札で大口の全量引き受けに成功した。5年5か月後には唯一の赤字会社だった住友倉庫の建て直しのため同社常務として本店移転・人員整理(配置転換)等で業績を立ち直らせた。住友生命保険の専務を任され、養老保険を考え出して保険契約を急増させた。戦後、住友本社は役員全部が辞任し260年続いた住友企業体の活動が止まった。大丸の里見純吉社長から副社長として助けてもらいたいと請われたが、自分だけ楽になるのは良心が許さず辞退したが、再度請われ、私が定職につくことが住友の為でもあると説得されて応じた。社長となり大丸東京進出に反対もあったが、成功を収めた。里見さんの跡を継いで学校法人大阪女子学園を応援し、国際文化振興会では関西代表で副会長となった。(昭和45年10月25日死去)