私の履歴書 三村起一(石油資源開発社長) 経済人6

昭和55年8月4日1版1刷 昭和59年2月23日1版9刷

 

①銀座通りの洋酒問屋に生まれる

②東大時代、卒業試験廃止を主唱

③“住友ムシプロ論”を発表

労務研究を命ぜられ海外へ出張

⑤フォードで“労働者”として働く

⑥大労働争議の渦中に帰国

⑦別子時代、五年で新鉱脈を発見

⑧住友を去り鴨川化工を再建する

⑨日本治金から石油資源開発

⑩安全第一一筋に四十五年

 

・明治20年8月15日東京銀座生まれ。実家山口家は信州上田の松平藩士で、私は生まれる前から三村直の家に養子に行く約束にされていた。養父は日本橋で本屋を開業したが、宮崎に渡り本屋の経営の傍ら、初代宮崎町長になった。高等小学校の2年の時、姉と上京し、早稲田中から一高に進み、東大で学んだ。卒業前年の夏に恩師新渡戸先生を訪ねて将来の相談をすると三井を勧められ、労務管理を学ぶためにデトロイトのフォード工場に入り、その後、英、独、仏、伊の労務管理を1年近く調べて帰国した。仕事は労務管理に全力没入した。45歳で別子銅山に赴任し8年半まで新居浜で別子債券に没頭した。最大の問題は煙害問題だった。研究を重ね、大煙突も閉鎖し、農鉱併進の理念に邁進して目的を達した。大阪本社に戻り本社理事と住友鉱業の社長を兼務した。終戦後、浪人生活をしばらく送った後、鴨川化工の再建を頼まれ社長を引き受けた。苦進楽慎を標語として重役に示し、軌道に乗せた。その後、日本治金の社長を1年務め、石油資源開発の仕事を引き受け、北海道で小規模の油田を掘り当て、北スマトラの協力も引き受けた。仕事中の殉職者を何人も眼にしたことで安全運動にも一貫して力を入れてきた。キリスト教に入信したが、処世の考え方としては陽明学ストア哲学に打ち込み、今も変わらない。(昭和42年石油資源開発公団初代総裁に就任。昭和47年1月28日死去)