私の履歴書 塚田公太(倉敷紡績会長) 日本経済新聞社 経済人5

昭和55年8月4日1版1刷 昭和58年10月24日1版8刷

 

①有恒学舎から京北中学へ

②一橋時代、楽しかった参禅生活

③ペン・フレンドと60年間の文通

三井物産に入社、勇躍ボンペイへ

⑤インド奥地へ綿の買い付けに出向く

⑥結婚、ボンペイから先輩にお願い

⑦綿花部が独立、東洋綿花発足

⑧ボンペイ支店長に昇格

⑨世界旅行、綿花産地を見て歩く

⑩味気なく、窮屈な統制時代

⑪整備統合、自主統制の美名で

⑫思えば38年の三井生活

⑬貿易庁長官から追放生活へ

 

明治18年9月27日新潟県生まれ。高等小学校を終えた後、有恒学舎に入学し、一橋に行くために京北中学に編入した。一橋に進んだ後、2年間の寄宿舎生活は大いに社会勉強になった。有恒学舎の時に始めたボストンのコリンズ君との文通は60年も続いた。卒業後、三井物産に入った50人のうちの1人となった。全卒業生の約4分の1が物産入りした。が翌年反動で3人しか入社できなかった。インドのボンベイ支店での生活が13年半続いた。インド独立運動ブラックリストに載せられていた。東京綿花が独立し、ボンベイ支店長に昇格。大正10年に帰国し、翌年取締役に就任。綿糸布輸出組合理事長時代は、戦争の拡大で綿糸が入ってこないため綿業界は細る一方になった。昭和15年に東綿の会長を5年務め、戦後、織物統制会社の社長を引き受けた。直後に貿易庁長官が空席となり、会社全員の了解があったので長官に就任した。追放中は全国を講演して回った。石川製鉄所の取締役になった後、呉羽で紡績を作ることになり発起人総代になり、富士紡績の会長になった。直後に倉敷紡績の社長にあってくれと言われ、富士紡績関係者に了解を得て、倉敷紡績の社長になった。(昭和38年倉敷紡績相談役。41年6月9日死去)