私の履歴書 大川博(東映社長) 日本経済新聞社 経済人3

昭和55年6月5日1版1刷 昭和58年10月30日1版11刷

 

①わんぱく時代

②村の斜陽族

③東京初上り

④岩倉鉄道学校

⑤夢実る鉄道マン

⑥東京鉄道局

⑦監督局勤務

⑧琴平と西武

経理統制令

⑩東急に入る

⑪海外事業

⑫行政査察使随員

⑬東急四分割

⑭レッド・パージ

パ・リーグ創立

東映の誕生

⑰オンボロ三会社

⑱ついに映画人に

⑲ボロ会社建直し

東映軌道に乗る

 

・明治29年12月30日新潟県生まれ。庄屋の息子だったが、次第に家産は傾き、15歳の時に上京して、従兄が鉄道会社に入り本庁高等官の制服姿にあこがれて上野の岩倉鉄道学校に入学した。中央大学の法科を卒業後、鉄道院経理局調査課、旅客主査、監督局勤務を経験した。昭和15年に会社経理統制令が実施された頃、鉄道大臣に呼び出されて官邸でレクチャーした。昭和17年鉄道省を離れ東急電鉄に入社。札幌の夏期講習会の講演が五島さんのお認めをねがえ、今日の運命を齎した。統制部長兼総務局次長の辞令を頂戴した。五島さんが運輸通信大臣に就任され、東急現職のまま運輸通信省の嘱託となり木造船建設促進の仕事を手伝った。戦後、東急社内の復元分割論の為の2つの委員会や臨時会社再建委員会の幹事長を任命され、小田急、京浜、京王が独立した。東映の社長も兼務する中、レッド・パージの言い分を聞き、問題を解決した。昭和24年にセパ両リーグが発足し、パリーグの初代会長になった。東映の社長を務めたのは五島さんの御指名だった。東横映画、大泉映画、東京映画配給というボロダクション三社が11億もの負債を抱えていた。三社合併して東映と社名が決まり社長に就任した初日、123枚の事実上の手形不渡りの処理からスタートした。高利貸しからの8千万の処理をし、映画界で初の予算制の確立と実行をした。住友銀行からの借り入れで高利貸しを一掃し、1年半で配当を可能にした。(昭和46年8月17日死去)